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【ベトナム戦争④】「Peace, Peace, Forever!【青木裕司と中島浩二の世界史ch:0030】



世界史参考書の超ロングセラー『青木裕司 世界史B講義の実況中継』シリーズの青木裕司先生と、福岡を中心に活動する人気タレント中島浩二さんの青木裕司と中島浩二の世界史ch」の文章版です(許可を得ています)。


中島:

歴史を紐解けば未来が見える。大人の世界史チャンネル中島浩二です。そして河合塾のカリスマ講師、世界史の青木先生です。よろしくお願いします。


青木:

お願いします。


中島:

ベトナム戦争、テト攻勢という1968年に南ベトナム解放戦線の兵士がアメリカ大使館を占拠して、でも最終的には18人全員が殺されて、でもそこから68年でアメリカは「これはちょっとベトナム戦争どうなの?」って68年に思っているにも関わらず、75年まであったわけですよね。


青木:

いったん始めた戦争って折り合いをつけながら終えるというのはものすごく大変なんですね。ただ前回も言ったようにアメリカの動きは早かったんです。テト攻勢が終わったあとにアメリカ大統領のジョンソンさんが北ベトナムに対する爆撃を一時停止するんです。これは和平の道を探すためです。

68年からパリでいわゆるベトナム戦争を終結させるための和平会談が始まっていくんです。


中島:

そこでパリというのは昔の宗主国という?


青木:

それもあるんでしょうけどね。北ベトナムと解放戦線、南ベトナムとアメリカ。この4者の間で話し合いが始まって。翌年大統領になったニクソンがグアム島で「もう撤退します」と。そのへんの決断はニクソンは早いんですよ。


中島:

以前アメリカをやったときにニクソンの、悪いというふうに言われているけど功績も実はあるんだよと。


青木:

決断が早かったですよね。


中島:

ベトナムから手を引くと。


青木:

ただ、南ベトナムの人たち、南ベトナムの共産主義が嫌いな人たちを見殺しにはしませんと。ただ、アメリカの青年たちをこれ以上南ベトナムで殺すわけにいかないから、資金援助と武器援助はこれまで以上にやりますと。でもアメリカ軍は撤退させてくださいと、そういう意思を表明するわけです。


中島:

ただ、ベトナムというところを考えたときに、じゃあベトナムで、南ベトナムで戦っていた人たちはどうするのという話ですよね。


青木:

まったくやる気がなくなりますよね。戦争ってやっぱりやる気というか戦意、それが大事なんですよ。ところが、アメリカに支援されてきたにも関わらず南ベトナムの政府軍は苦戦を続けたわけですね。アメリカ軍がいなくなったら勝ち目がないんですよ。それは誰が見たってわかるじゃないですか。ここからは雪崩を打つように南ベトナム軍が負けていくんです。


中島:

これは大変な話になっちゃいますよね。


青木:

特に1973年1月にベトナム和平協定がついに調印されて、アメリカは撤退します。そのあと2年間、北ベトナムと解放戦線の攻撃を南ベトナム軍が対応するわけです。さっき言ったようにもう勝敗は決まっている。1975年4月30日に解放戦線の戦車隊が南ベトナムの大統領官邸を占拠した瞬間にベトナム戦争は終わるわけです。

ちょうどこのとき僕は大学1年生で、部活の練習を終えて、ちょっと食堂で飯食って帰ろうかなと。そしたらテレビにみんな鈴なりだったんです。見たらちょうどベトナム戦争が終わる瞬間だったんです。


中島:

テレビ中継されていたんですか?


青木:

やってた。生だったかニュース映像だったかは今ははっきりと覚えていないけども、それをみんな食い入るように見ていたんです。解放戦線の戦車隊の中の戦車兵の1人がさっきの解放戦線旗を持って大統領官邸の中に入っていって、バルコニーから旗を振るわけですよ。そのときにその兵士がなんと言ったか、勝利万歳と彼は言わなかったんです。なんと言ったかというと英語です。「Peace,Peace,forever」。

ベトナム戦争って勝ったという感激の気持ちで終わったんじゃなくて、インドシナ戦争から考えれば30年間ですよ。最初はフランス、次にアメリカ。やっとこの戦争が終わったと。「平和よいつまでも」というのが、心から出た言葉だと僕は思ったんですよね、あのとき。ベトナムの人たちにとってベトナム戦争ってそういう戦いだったんだって。終わってみんながホッとする戦いだった。

ただ、何百万人かな、犠牲者の数ははっきり言ってわからないです。特に農村部でどれぐらいの犠牲があったかってわからないです。一応当時の北ベトナムがなんと言ったかというと、戦死者が120万人ぐらい。ただ、それに巻き込まれて亡くなった人の数はよくわからない。たぶん200万人前後。合わせると300万人のベトナム人が命を落とすと。

一方アメリカ軍も5万人から6万人、戦争によって亡くなったり戦争関連死、それで亡くなったり、大きな傷を双方に残していくわけです。


中島:

今、新型コロナウイルスの影響でベトナムはなかなか行けないという状況でしょうけど、今ベトナムってわりと女子がビーチリゾートとか、田舎の風景とかで行ったりするんですが、実はベトナムに行ったらそういう戦争の傷跡を見ようという、ちゃんとあるんですよね。


青木:

ありますね。ツアーになってますよね。


中島:

そうなんです。ずっと掘られた壕を見て回るとかそういうこともあるので、ぜひこの大人の世界史チャンネルを見て「あっ」と思ったら、そういうところも実際に行くというのは勉強になるでしょうね。


青木:

そうですね。ちなみに前回ご紹介した僕の友達です、ベトナムに旅行した。彼が買ってきてくれたお土産なんですけど、クシ、それからシガレットケース。なにでできているかというとジュラルミンなんです。撃墜したアメリカの空軍機から作ったクシとシガレットケースなんです。


中島:

そういうのも資源にして。


青木:

そうですね。鉄は戦争が終わったときにほどんどなかった、武器に全部使っちゃって。ジュラルミンだけはたくさんあった。


中島:

ベトナム戦争を見てきましたけれども、もともとこのベトナム戦争というのをやろうと思ったのは僕が高校生から大学、90年ぐらいまではいろんな傷ついたアメリカの人たちの映画だとか音楽だとかがありましたけれども、でも考えてみたらベトナムの人たちはそれ以上に大変、もちろん当然それ以上にというか、大変なことだったというのがわかりましたね。


青木:

そうですね、300万人といったら日本の太平洋戦争の死者と一緒ですよね。


中島:

ベトナム戦争でした。








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