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【ラテンアメリカ史2】キューバ革命 カストロとゲバラ【青木裕司と中島浩二の世界史ch:0051 】



世界史参考書の超ロングセラー『青木裕司 世界史B講義の実況中継』シリーズの青木裕司先生と、福岡を中心に活動する人気タレント中島浩二さんの青木裕司と中島浩二の世界史ch」の文章版です(許可を得ています)。


動画版:「【ラテンアメリカ史2】キューバ革命 カストロとゲバラ」

中島:

歴史を紐解けば未来が見える。大人の世界史チャンネル中島浩二です。そして河合塾のカリスマ講師、世界史の青木先生です。よろしくお願いします。


青木:

お願いします。


中島:

ラテンアメリカを見ていくということで革命が成功したというキューバの話をするということですね。


青木:

キューバもご多分に漏れずアメリカによって完全に経済的に支配される。前回中島さんもおっしゃったようにサトウキビの畑が作られて、砂糖が生成されて、それをアメリカの食品会社が持っていって、チューインガムを作って売りつけると。


中島:

しかもアメリカのいわゆる言いなりになる政権、バティスタ政権という政権がずっと国を支配していたわけですね。


青木:

そうですね、1930年代からだから20年以上ですね。アメリカの手先として振舞っているキューバ人たちはそのおこぼれに預かると。ちなみに言うとフロリダ半島からキューバって200キロぐらいしか離れてないです。


中島:

目と鼻の先なんです。


青木:

週末になるとアメリカの金持ちが飛行機に乗ってキューバのハバナにやってきて、そこでさんざん遊んで帰っていく。だからハバナの街にはラテンアメリカ最大のキャバレーなんかも作られるんです。僕、30年前に行きましたけどめっちゃくちゃでかいですよ、半端じゃなく。向こうのほうで踊り子さんが踊ってるんです。規模が違う。


中島:

そのぐらいでかいキャバレーだと。


青木:

それだけたくさんのお客さんがアメリカから来ていたわけです。一方では貧富の差も非常に激しくて、貧しい人たちの子どもたちは病気になったら薬も手当ても与えられずバタバタ死んでいくと。多くのキューバ国民は文字の読み書きもできない、教育水準も非常に低いということに怒りを持って立ち上がったのがフィデル・カストロという人物なんですね。


中島:

これが弁護士さんなんですよね。


青木:

もともとキューバのハバナ大学の法学部出身で野球が大好きだったらしいですね。


中島:

ものすごくオリンピックのときの野球とか、キューバ代表の野球というのをものすごく応援していたというのは有名な話ですね。


青木:

さらに言うとカストロ自身もアメリカの民主主義については非常に好意を持っていたという話があるんです。アメリカの経済的振る舞いには怒っていたけども、アメリカの歴史みたいなものにはリスペクトがあったという。


中島:

政治システムとしてということですよね。


青木:

そうですね。アメリカは基本的に民主主義の国として評価はしていたらしいんです。ただそのアメリカの手先になっていたキューバで貧富の差が激しくて、弁護士さんとして社会奉仕活動なんかをやっていくわけです。でもそれじゃ埒があかんというので彼は1953年に仲間の一部と武装蜂起をやるわけです。モンカダ兵営というところを襲撃する。多くの仲間が殺されちゃうんですが、彼は裁判で「歴史は私に無罪を宣告するであろう」という有名な弁舌をやって、そのあと恩赦で釈放されるんです。しばらくメキシコで亡命生活をやっていて。


中島:

キューバをあとにするんです。


青木:

そうですね。その亡命地のメキシコでアルゼンチン出身のお医者さんと出会うわけです。


中島:

これがチェ・ゲバラ


青木:

エルネスト・チェ・ゲバラ。


中島:

この人はアルゼンチン出身で裕福な人なんですけれども、映画にもなりました、本にもなっています、「モーターサイクルダイアリーズ」という、ずっとラテンアメリカをバイクで旅するんですよね。


青木:

大好きな映画ですね。


中島:

このモーターサイクルダイアリーズ、実際にバイクで旅をしたときにラテンアメリカがどんな状況になっているのかということをエルネストはいろいろ感じるんですね、若き青年医師のエルネストは感じるんですよ。それでカストロと出会って「そんなことだったら俺も手伝わせてくれ」という話をするんですね。


青木:

意気投合してね。数十人の仲間と一緒にメキシコからゲリラ戦をやるためにキューバに行くわけですね。


中島:

ボートに乗って行くんですよ。


青木:

これがボロボロのボートで、グランマ号といって。


中島:

実際にたどり着くかどうかわからないみたいな。


青木:

グランマっておばあちゃんという意味なんですよ。おばあちゃんみたいなよぼよぼのボートに乗って行くわけね。

ちなみにキューバといえばデスパイネ。デスパイネが昔いたチームの名前、知っています?


中島:

知らないです。


青木:

アラサメ・デ・グランマ。グランマ号から名前を取っているんです。


中島:

すごい。キューバにたどり着くんです。


青木:

そしてなんだかんだあって、山の中に逃げ込んでいってゲリラ戦を展開するわけです。一番少ないときは7人までいっちゃうんですよね。


中島:

これが本当に駆逐されるギリギリまで行くんですよね。


青木:

ほとんど壊滅するんですよ。でもそこからまた盛り上がっていくわけですね。


中島:

これが今までずっと大人の世界史チャンネルで見てきた農民というのを味方につけたというところはありますよね。


青木:

そこも中国共産党と一緒なんですよね。農民たちの支持を得るために地主制を打倒して農民たちに土地を分配する。これは農民の人たち、当時のキューバって農業社会なので、貧しい農民がほとんどなんです。その彼らの彼女らの魂を掴むわけです。だんだん農村部で大きな勢力になって、ついに1959年1月1日に首都のハバナに進軍するわけですね。


中島:

すごいですよね。


青木:

1日前の大晦日の日にバティスタは家族とともに亡命するわけです。


中島:

これが本当に拍手喝采で迎え入れられたという話ですよね。


青木:

ちなみにそのへんの状況はゴッドファーザー2に出てきます。


中島:

そこからフィデル・カストロの国づくりというのが始まるんですね。


青木:

もともとカストロ自身はアメリカと悪い関係に持っていこうとはあまり思っていなかったらしいんです。経済的な結びつきもあるし。ところが貧しい人たちの利益を優先するには、たとえば農園を接収したり、アメリカの企業が支配している農園を接収したり、いろんな社会主義的な政策をやらざるを得ない。そういう中でアメリカが結局キューバと国交を断絶しちゃうんです。


中島:

そこで国づくりが始まるんですけれども、でもずっと長いことを社会主義ということで、みんなわりと貧しさを持ちながらも、楽しさを持ちながらもという国づくりを、つい何年か前にわりと経済的にはいろいろ緩和みたいなことにもなってるみたいですけどね。


青木:

簡単に国づくりの歴史を確認すると、アメリカから1961年に国交を断絶されて、大変だったんですよ、そのあと。「助けてくれ」とカストロが言ったときにソビエト連邦が「じゃあ支援をしてやろう」と。これをアメリカが見て「キューバはソ連の手先になりやがった、許さん」と。対立が激しくなっていって、1962年にキューバ危機になるわけですね。そのキューバ危機を克服したあともソ連からいろんな援助を受け続けるわけですよね。ところが1989年にソ連自身が援助はできないと。


中島:

いわゆるソ連が大変だということですね。


青木:

大変だったんです、当時ゴルバチョフの時代はそうだった。ゴルバチョフがキューバを初めて訪れたのが1989年なんです。彼らが去った1週間後に僕実はキューバに行ったんです。「これまでみたいにソ連はあなたたちを支えられない」と。カストロたちがなにをやったかというと、じゃあキューバの国内でなんとかいろんなものを賄わにゃいかんというので、日本で言ったら地産地消、遠くからいろんな必要なものを持ってくるんじゃなくて、その地域で採れるものを近くで消費して経済を完結させようと。日本で言うなら地産地消みたいなことを率先してやっていくんです。さっき中島さんがおっしゃったけども、確かに国民全体は貧乏なんですよ。なんだけど、行った僕が感じたのは、貧しいけどで貧困はないんです。


中島:

ということなんですよね。


青木:

それで精神まで貧しくなっていないんです。ひとつにはキューバといえば教育水準が非常に高くて、なおかつ医療設備も非常に整っているんですね。


中島:

しかも病院がタダなんですよ。学校がタダ、病院がタダ。


青木:

国民のいわゆるセーフティーネットというか、そこはきっちりあるんです。革命前には餓死する人がいたけども、革命後には少なくとも餓死する人はいないと言われてるんです。


中島:

ただ、おいしい料理とか贅沢なことになるとなかなか難しいという、今キューバが抱えている問題がそこのところにあるという話なんですよ。だからお医者さんも、自分も教育を受けるのにすごくお金を出してもらって、海外留学とかも結構させてくれるらしいんですよね。帰ってきてやっぱり国のために皆さんの医療に携わるけれども、やっぱり豊かではないと。


青木:

うん、豊かではない。どっちを取るかなんですけどね。豊かではないんだけども、経済的には豊かじゃないんです。僕が行った30年前も食糧配給場というのがあって、そこには人が列をなして並んでいるんですよ。みんなが暗い顔をしているかというと


中島:

そうじゃないということなんですよ。ここのところは本当に難しいですよね。


青木:

単純な比較になって恐縮ですけども、百何十年か前に明治維新直後に欧米から多くの欧米人がやってくるでしょ、日本に。国民の多くは当時は農民だった。その生活を見て同じことを欧米人が言っているんです。「この国は貧しい。でも貧困はない」と。精神的な貧しさがないということを彼らは記録に残しているんです。それを思い出すような感じだったんです。


中島:

キューバへ行ったときにですね。


青木:

はい。話を戻すと、しかしながら1989年まではソ連から援助されてきたと。ソ連なしにはキューバの舵取りはなかなかできなかった。それに対してゲバラが批判をするようになるわけですね。「ソ連という国はひょっとすると自分たちの国のことしか考えていないんじゃないか、世界の人々の幸せは考えていないんじゃないか。そのためにキューバも含めてアメリカに対抗するための手先として利用されているんじゃないか」みたいなことを彼は公言するようになるわけです。


中島:

これを国際社会の場で言っちゃうんですよね。


青木:

それでソ連から激怒されて、間に入ったカストロが困るわけ。その困っているカストロを見て、「フィデル、心配するな。俺はここを出ていくから」といってゲバラはキューバをあとにするわけです。


中島:

そうですね。ボリビア戦線というところに、同じようにボリビアが大変だというふうなことでボリビア戦線に参加するんですよね。


青木:

ゲリラ活動をやっていて、それをボリビア政府軍が鎮圧できないと。ボリビア政府はアメリカになんとかしてくれと。そういうゲリラ部隊をやっつけるプロがいると。アメリカから特殊部隊の連中が顧問としてやってきて、その連中が立てた作戦によってゲバラのゲリラ部隊は追い詰められていって、結局ボリビアの村で捕まえられて処刑されるわけですよね。


中島:

遺体がずっとあるところに埋められたままなんですよね。それが最終的にはキューバに帰るというときに国葬みたいなことになってということなんですけれども。


青木:

30年前にキューバに行ったときにゲバラの肖像画とかがたくさんあったんですよね。あそこは法律で現存する指導者の銅像なんかは作ってはいけないという法律があって。


中島:

言ってみればカストロの肖像があっても良さそうなものだったのに、そのときは全然なかったという。


青木:

東アジアのどこかの国と全然違うというね。そういうところは、カストロって独裁者は独裁者だったと思うんだけども、そのへんの恥は知っていたみたいですね。


中島:

僕は政治家としてはかなり有能な人だし、したたかだし、すごい人だなって僕はカストロさんはいつも思ってるんですけどね。


青木:

僕もそう思います。


中島:

キューバでした。








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