世界史参考書の超ロングセラー『青木裕司 世界史B講義の実況中継』シリーズの青木裕司先生と、福岡を中心に活動する人気タレント中島浩二さんの「青木裕司と中島浩二の世界史ch」の文章版です(許可を得ています)。
(前回の記事「 田中角栄とその時代(4)角さんの議員立法」はこちら)+
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田中角栄とその時代(1)田中角栄、生誕
動画版:「田中角栄とその時代(5)大臣になった角さん」
中島:
歴史を紐解けば未来が見える。大人の世界史チャンネル中島浩二です。そして世界史の青木先生です。よろしくお願いします。
青木:
お願いします。
中島:
田中角栄さんを見ておりまして、いよいよ閣僚、大臣になってからということですね。
青木:
時に1957年、昭和32年。当時の総理大臣は岸さん。亡くなられた安倍晋三さんのおじいちゃんですね。その岸内閣の郵政大臣になるんです。
そのときに郵政大臣になって官僚を集めて最初に訓示をするんですけども、その訓示の一説をご紹介します。
「私は新潟県柏崎の生まれでまだ39歳。未熟者であることは言うまでもない。郵政事業にはまったくの素人であるからなにも抱負経綸といったものはない。最終責任は私が取る。皆さんはそれぞれ自分の仕事に責任を持って進めてほしい」
上司として理想的ですよね。
中島:
わかりやすいですよね。
青木:
郵政大臣になったときに郵政省の建物を地下からてっぺんまでずっと行ったらしい。必ずしもお役人たちが仕事をしていない。たとえば勤務時間中なのに麻雀をやってる連中もいる。
中島:
えー。そんなのが許された時代なんですね。
青木:
でも角さんは怒らなかった。「麻雀はおもしろいからね。ただもうちょっと能率よくやっていこう。時間を決めてやったりするともっと良いよ」と。掃除のおばちゃんたちがいる部屋があって窓がなかったと。ここはちょっと健康に悪いですよねというので、もっと別の場所にしましょうと。労働組合、郵政省だと全逓労働組合、全逓労組。郵便関係の労働組合があって、これがかなり強い労働組合だったんです。そこの連中とも対話を欠かさなかった。労働組合のリーダーに当時大出俊という人がいて、この人はのちに社会党の国会議員になって、社会党でも有名な国会議員になるんですけどね。ただ郵政大臣としてはある意味敵である全逓労働組合のリーダー、その大出俊さんの才能がすばらしいと思ったと。「君、労働組合の委員長をやめて私の秘書にならんか」と。それはさすがにというので、官僚たちがそれはまずいだろうというので押しとどめた。ただ利用できるものはなんでも利用するというこのへんの柔軟さというのが田中さんにはあったみたいです。
郵政大臣の部屋に座る。そうすると窓があって、窓の向こうに建設中の変な建物があって、これが建設途中の東京タワーだった。実は東京タワーが作られ始めてしばらくして建築法に違反しているというので工事が途中で、僕も知らなかったんだけど立ち消えになったらしいんです。建築基準法に違反する建築物だというので途中で中止になっていて、鉄骨が錆び始めよったらしいです。
角さん「これはまずいよね」と。もともと東京タワーって電波塔でしょ。テレビの放送のためにあるじゃないですか。これからはテレビというものが国民に必要になってくるというときに電波を中継する塔が立たなくちゃいかんと。なにがいけないの?建築基準法は我々が作った法律だと。あの人は土建屋さんなので。だからこの法律自体を変えようといって、当時の建築事務次官、官僚のトップのところに行くわけですよ。その人が、当時の建築事務長はこの方なんですけども、名前が石破二郎さんといって、石破茂さんのお父さん。
中島:
そうなんですか。
青木:
石破茂さんのお父さんが当時建築事務次官で、彼と交渉するわけですね。法律を楯に取ったらいろいろあるかもしれんけど、法律を改正すれば良いだろうと。その先はこちらでやるから粛々と建築をやってくれたまえ。そのへんもまたすごいですよね。
もうひとつはいわゆるテレビ放送局の放送免許。これも免許を認める認めないで利権が発生するじゃないですか。それがいろいろあって、官僚たちが放送局の免許を下ろさなかったと。これについても郵政大臣になったばっかりの角さんが、これからはテレビの時代だというときに放送局が各地になかったらいけないじゃないかと。彼のほとんど一存ですよ。NHKの7つの放送局、地方のね。と民法36局、その免許をバーンと出すんです。こういうところがすごいなと思います。
あと郵便事業。これも公立の郵便局って各地にあるじゃないですか。それだけじゃなかなかハケないよねというのでいわゆる特定郵便局ですね。特定郵便局って地方の名士の皆さん、その人たちが特定郵便局の局長になることが多くて、これはこれでよく言われたんですよ、特定郵便局1局で100票。選挙のときに100票になる。選挙のときには集票マシンにもなってくれる。そういったこともあって特定郵便局をいっぱい作りましょうと。もう70年ぐらい前だけど2万局作ろうと。今は特定郵便局は日本全国に1万8000ありますからね。角さんが立ち上げたイメージというのが今現実のものになっているということなんですよね。
こうして最初の閣僚を経験するわけですね。1957年から58年まで。足かけ2年間。
中島:
でかなりのことをやっていますね。
青木:
ちょっと挙げただけでも我々にわかることをいっぱいやっているわけですよね。
中島:
そうですよね、今の大臣が我々にわかることをそんなにやっているかって。
青木:
説明してくれるかというね。そしてこのあと彼は実は大臣も大事な役職なんだけども、ある意味彼の念願の役職につくことが認められたわけです。それはなにかというと、自民党の副幹事長。自民党というのは長らく政権党で、その自民党、もちろん総裁という人がいますよね、トップ。でも総裁は総理大臣を兼ねるので、はっきり言うと党務に専念できない。党をまとめる最高のポジションが幹事長。党の政策を立案する最高のポストが政調会長。党全体の運営をやるのが総務会長。通称党三役。
中でも幹事長というのが共産党でいうなら書記長に当たるポジションですよね。その副幹事長に彼はなるわけです。ゆくゆくは幹事長になって自民党をコントロールし、たぶんこのあたりで「俺って総理大臣になれるかも」というふうに思ったんじゃないかなと。
当時の幹事長、川島正次郎という人で、これは自民党の重鎮ですね。政調会長、総務会長、彼は副幹事長。1959、60、61、3年間やるんですよ。ポジションを経て1961年に党内ナンバー3である政調会長ですね。政策立案の会長になるわけです。もちろん自民党の頂点に近いところにいるわけですけども、一方で政調会長時代に彼は医師会とのやりとりをやってるんです。当時は国民皆保険制度というのができつつあって、誰でも安心して病気になれる。問題になったのは診療報酬をどうするか。一般の病院に比べて町のお医者さん、開業医の診療報酬が低かったらしい。これに医師会の人たちが反発して、当時の医師会の会長が武見太郎さんという人で、我々は覚えている名前ですね。
通称医師会の暴れん坊。総理大臣よりも医師会の会長のほうが強いんじゃないかと言われた時代があるんですよ。その暴れん坊武見太郎さんが開業医たちをまとめて診療報酬を上げてくれないんだったらストライキだと、病院が。その交渉がうまくいかなかったので政調会長の田中角栄さんが行くわけです。どうしたかというと、1通手紙を置いて角さんは帰る。武見さんが封筒を開けてみると「右の通り許可する」と。要するに「武見さん、なんでも書いて良い。俺が認めるから」と。そうすると無謀なことを書けないじゃないですか、任されると。そういう腹芸も角さんというのはできた人間だった。下駄を預けて好きにやって良いよと。好きにやって良いと言われたら逆に好きにやれないというところが角さんってわかってるんです。これは政調会長時代の彼の一番の業績と言って良いんではないかと思うんですね。
翌年の1962年、まだ彼が政調会長のときに、当時はアメリカのケネディ政権だったんだけど、彼の弟のロバート・ケネディ、当時は司法長官。のちに大統領候補になって暗殺されちゃうんだけども、その若きロバート・ケネディが日本に来るんですよ。日本の若い政治家たちと話がしたいと。ゆくゆくは我々の世代になるから若い政治家の皆さんとも話がしたいと。自民党を代表して角栄さんと、英語ペラペラだった宮澤喜一と、そして角さんの同年の政治家であった中曽根さん。3人がロバート・ケネディと会う。そこでロバート・ケネディが「日本にももうちょっと防衛負担をやってほしい。単にアメリカによって守られているだけじゃなくて日本にも自助努力、防衛努力をやってほしい」と。
中島:
そういうふうなことをロバートから言われていたんですね。
青木:
言われてた。そしたら角栄さんが、そう言うんだったらあなたたちが押し付けた憲法をなんとかしてくれと。一言言っておくと角栄さんは積極的な改憲論者じゃないんですよ。戦後の民主改革も日本国憲法も、いろいろ批判はあるけど国民の間に定着していると。これは福田さんもそうなんですよね。憲法改正というのを声高に叫ぶ政治家じゃなかったんです、福田さんも角栄さんもね。アメリカが防衛努力をなんとかしろというんだったら憲法をなんとかせないかんと。憲法をなんとかしようと思ったら内閣の2つ3つ飛んでしまうと、それぐらいの大きな問題なんだ、だからこれは大変な話なんですよというふうな話をやるわけです。それがちょっとね間違って伝えられちゃうんです。どういうふうに間違って伝えられたかというと、防衛力の自助努力はする。じゃああなたたちのほうから憲法を改正するようにガンと言ってくれ、そしたら我々も憲法を変えやすいと。あたかも角さんが憲法改憲論者みたいな形でマスコミに報道されて、それが国会で追求されるわけです。収集がつかなくなって、このときはさすがの角さんもちょっと落ち込んだと。必ずしもそういう意図では言っていないんだけども、もう広がったものは収拾できないと。「俺、政調会長やめようかな」と。トレードマークだった髭も剃ろうかなと。国会議員をいっぺん辞職してやり直そうかなと。そしたらアメリカに留学していた娘さんの真紀子さんが電報を打ってきた。一言「親父、髭剃るな」と。
中島:
そんな弱気になっちゃダメだよと、今のままおってくれということですよね。
青木:
本当はオフレコだったロバート・ケネディと角さんたちの会話をすっぱ抜いたのが当時東京タイムズという新聞社の記者だったんです。この人が早坂茂三だったんです。
中島:
のちの
青木:
田中さんの秘書。
中島:
懐刀になるという。
青木:
早坂さんがその記事をすっぱ抜いて、ある意味角栄を誤解させてしまったんです。あの記事を書いたのは自分だと一言挨拶をするべきだろうというので早坂さんが角栄さんのところに行くわけです。そしたら角栄さんはすっぱ抜いたことについてはなにも言わない。「お前、俺の秘書にならんか」と。
中島:
それだけ早坂茂三さんになにかを見たんですね。
青木:
見たんです。あの記事をすっぱ抜いたことが自分と角栄さんとのきっかけになったと。それからの20数年間は角さんを支えた1人ですよね、早坂茂三さん。
このあとも政権中枢に向かってどんどん近づいていくわけです。
中島:
わかりました。次回お届けします。
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