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執筆者の写真順大 古川

田中角栄とその時代(6)政権中枢の角さん【青木裕司と中島浩二の世界史ch:297】



世界史参考書の超ロングセラー『青木裕司 世界史B講義の実況中継』シリーズの青木裕司先生と、福岡を中心に活動する人気タレント中島浩二さんの青木裕司と中島浩二の世界史ch」の文章版です(許可を得ています)。


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田中角栄とその時代(1)田中角栄、生誕


中島:

歴史を紐解けば未来が見える。大人の世界史チャンネル中島浩二です。そして世界史の青木先生です。よろしくお願いします。


青木:

お願いします。


中島:

田中角栄さんを見ています。シリーズで何回目かよくわかりませんけれども。いよいよ政権中枢にということですね。


青木:

自民党の副幹事長から政調会長、党務においても真ん中に近づいていくわけですね。そして1962年、田中角栄さん、44歳のときに彼は主要閣僚である大蔵大臣になるわけですね。当時44歳。



中島:

大蔵大臣になるってすごい人事ですよね。


青木:

それこそ戦後の日本の政治権力の中で大蔵省といったら真ん中の真ん中でしょ。


中島:

今の財務省がそうですけど、結局いろんな省庁の中で予算をつけてもらなきゃいけないから一番のところですよ。


青木:

しかも官僚たちというのはそれこそエリート中のエリートですよね。そこに高等小学校しか出ていない学歴の田中さんがなった。例によって田中さんは官僚を掌握するためには人間的な信頼関係を作るのが必要だということで、郵政大臣のときと同じような訓示を最初にやるわけですね、責任は全部取る。



君たちは思う存分やりなさいと。それこそおっしゃったように予算を組む作業なんて大変らしいんですよね。徹夜徹夜で、終わると必ず角さんの主催で打ち上げをやる。それこそご苦労さんということで必ず金一封配ってた。それも金一封のレベルじゃない。それぐらいの仕事だからというところでしょうね。

 

中島:

良くないことですよ、これ。良くないことだけれども。

 

青木:

良いか悪いかといったらよくないことですよ。


中島:

そうですね。


青木:

でもそういうことも必要なときはあったんだなと。


中島:

時代ということで片付けておきましょうか。ただ、がんじがらめになると結局自分たちの中の権力闘争とか、出世ということでしか給与が上がっていかないということになると、今度は省庁の中の論理でしか官僚の人たちが動かなくなると、これは国民の生活を良くするための行政サービスなのに、そうじゃなくなっちゃうというところになってしまう。


青木:

結局国益、あるいは国民の利益じゃなくて省益ね、省の利益、要するに自分たちの利益。それが先行するようになっちゃう。


中島:

これになるとちょっとやばいなって思うんですよね。


青木:

結局公務員の給与を上げてやれば良いんだけど、それをやるためには法律を変えないといけないじゃないですか。めんどくさいじゃないですか。じゃあわしが土建屋で儲けた金で。


中島:

まあ悪いことなんですけど、やり方はないのかなと。今、行政の人たちで国民の生活を良くするように考えている省庁の人たちがいてくれれば良いなと思いながら。


青木:

ただ、さすがに大蔵大臣、相手は超エリート官僚。


中島:

言うこと聞いたのかなと思って。


青木:

ときどきやり込められる。やっぱりそれは官僚のほうが勉強してますからね、勉強の総量は絶対に官僚のほうが上なの。だからときどきやり込められるときがあった。



角さんが「ちょっと失敬」といって部屋から出ていって、顔を洗って帰ってくる。これは悔しくて泣いたらしいんです。顔を洗って、「もういっぺん話を聞かせてくれ」と。ただ、そういうことが繰り返されていくとこの大臣は信用できると。いつも言ってるけど、国のことを考えてる人なんだなというのがわかり始めていくらしいんです。しかも金一封ももらえるということでだんだん操縦ができるようになる。

運が良かったのは、彼が大蔵大臣になったのは62年でしょ。東京オリンピックの2年前で、それこそ高度成長がグっと始まって、総理大臣も池田さんで所得倍増。実際に僕も含めて国民が豊かさを体感している時期だったんです。オリンピックもすばらしい結果で終わって。ただ、翌年にオリンピック後の不況が来るわけです。これに角さんは対応できなかった。すると新しく総理大臣になった佐藤栄作が、ここは経済の専門家にというので福田赳夫さんを持ってくるわけです。

これは角さんとしてはたぶん悔しかったと思うけども、ただ、経済がダメになったときになんとかする、これは福田赳夫さんしかいないですよ、はっきり言って。それはもう陸軍とやり合った男ですからね。

それでオリンピック後の不況をなんとかしていく。角さんは大蔵大臣を辞めたあとになにになるかというと、今度は自民党の幹事長になる。よく言われます、総理へ一番近い道、一番近いポジション。しかも1965年から66年の2年間と、68年から71年の2回やってるんです。幹事長を2回やった人というのはそんなに多くないので、そこは党の運営に関しては、党の掌握に関しては総理大臣の佐藤さんもよく角栄さんの才能がわかってらっしゃったという感じですね。

当時は60年代の中盤から後半、第一党が自民党で、だいたい250から300議席。第二党が社会党。100議席から150議席。イギリスとかアメリカは二大政党制、でも日本の場合は「一か二分の一政党制」と言われていたんです。自民党の半分か三分の二ぐらいしか社会党がなくて。ただ、社会党さえうまく丸め込めばいろんな法案が通るわけです。というので、角さんはなにをやったかというと、社会党の議員も抱き込んでいく。


中島:

ここがなんというか、そこで抱き込むれたほうもちょっとなという。


青木:

どういうふうに抱き込まれたかについてはあまり詳細を語るべきじゃないかもしれないので言いませんけども、いろんな接待とかね、それもあった。一応議場では対立しているふうになるわけですよ。最後どうするかというと自民党は強行採決をする。すると社会党は「俺たち頑張ったんだけども自民党が強行採決したのでやむをえなかった」と。双方の顔を立てて法案は粛々と。


中島:

なんというか、プロレスじゃねえんだからという。そのときはまだ小学校に上がるか上がらないかぐらいだから、あとで聞いて「えー」って。



青木:

ちょうどそれこそ中島さんがお生まれになった頃に角さんは最初の自民党幹事長をやるわけね、65年か66年。いったん2年間で幹事長を辞任させられるわけですよ。一説には総理大臣だった佐藤さんが、このまま行ったら自民党が田中角栄党になってしまうと。人望もあるし、金も持ってるし、献金なんかを受けなくても、もちろん献金もあったんだけど、献金なんか受けなくても自前で金を稼いでるじゃないですか。自分の金でもってコントロールできる国会議員が増えていって、佐藤さん自身も実はエリート官僚の出身なんです、東大出身で。だから自分の後継者は福田だと思ってたらしいんです。でもこのまま行ったら福田がなれないかもしれないというので、66年にいったん自民党幹事長の座から下ろすんです。



このあと68年までまるまる2年間3年間、角さん無役の時代。閣僚にもなっていないし、自民党のポジションにもついていない。しかしまわりがそれを放っておかなかったんです。どうしてかというと、あれだけ政治的な経験をやって具体的な提案、道路法とかなんとか。国のことをいつも考えている、その人を遊ばせるのはもったいないというので自然とブレーンが集まってくるわけです。この国はどうすれば良いかについて勉強会をしましょうと。で、自民党都市政策調査会というのを角栄さんがみんなから祭り上げられる形で立ち上げるわけです。すると、自民党中心に87人の国会議員が集まってきて、この国の産業、ふるさとをどうするか。道路をどうするか。それについての具体的な議論がこのあと2年間展開されていきます。

それをまとめた文章が土地政策大綱。これが600ページぐらいかな、文章として出るわけ。すると「これはすばらしい業績だ」というので朝日新聞が社説で褒めるんです。


中島:

すごい。朝日新聞が自民党のそういうことを褒めるって珍しいですよ。


青木:

これは大したもんだと。このときはさすがに角さんもこれはうれしかったねと。朝日から褒められたと。これがある意味このあとの列島改造論にちょっと姿を変えるんだけども、変わっていくわけですよね。

そういうことで、無役の時代も角さんは遊んではいなかったと。


中島:

ということですね。きちんとなにかを成し遂げた。


青木:

そして1971年、昭和46年ですね。彼は通産大臣に抜擢されるわけです。郵政大臣から大蔵大臣、そして通産大臣。


中島:

ものすごい一番のメインストリートをずっと歩んでるってことですよね。


青木:

しかも当時通産大臣というポジションって大変だった。なぜかというと、日本とアメリカの間に貿易摩擦があって、いつもあるんだけど、このとき特に問題だったのが、日本の繊維製品がアメリカのマーケットで質も良いし売れるわけです、安いので。それでアメリカ南部を中心とする繊維工業の人たちが、このままでは日本に潰されてしまうと。当時の大統領はニクソンですけども、ニクソンになんとかしてくれと。



日米貿易摩擦解消のための、繊維工業をどうするかと。これでアメリカ側が日本の繊維の輸出に制限をかけると言い始めたらしいです。それをやられると日本の繊維工業は大変なので、交渉が始まるわけです。ところが、交渉にあたった大平さんは失敗するんです。福田さんも失敗するんです。結局話し合いがつかない。で、ここは腹芸ができる。


中島:

それは餅は餅屋ですよ。



青木:

角栄さんが抜擢された。彼は訪米して、商務長官とか、ニクソンとも会ったのかな。ところが話がなかなかうまく進まないと。結局良い品物を安く売る、それはあなたたちは買ってるから良いんじゃないかと。それを制限するというのはGATTに対する違反だと。貿易関税に関する一般協定。「もともとあんたらが作ったルールだろ、それをあんたら自身が破って良いのか」と。筋論で言ったけども筋論が通じないと。彼は日本に戻ったときに方針を転換するわけです。どうするかというと、輸出は制限すると。それで打撃を被る日本の繊維業界には保証金を出すと。その額が2000億円。

今2000億円と聞くとそんなに大した額じゃないと、でも当時の2000億円は大きいです。今はだいたい日本の国家予算は100兆円を超えてるじゃないですか。あの頃の国会予算って15、6兆円なんです。


中島:

10分の1ぐらいですね。



青木:

100分の1ぐらいかな。15、6兆円ぐらいの予算のときの2000億円といったら、しかもいち産業でしょ。それに2000億円をぶち込むというのはかなり無謀なんです。それを大蔵省なんかに飲ませるわけです。それぐらいの予算を出してくれと。だからアメリカも納得するわけです。

これで一説には田中という男はよく話がわかるというのでアメリカが「あいつは良い」と思うようになるわけです。らしいです。

この通産大臣の役職を彼は2年間やる。日米繊維問題を解決した、これは大きな業績だった。その彼に待っていたのが総理大臣。


中島:

次は総理大臣の話ですか。そういうことにもアメリカが介在しているところがちょっと


青木:

引っかかりますよね。


中島:

引っかかります。じゃあ次回です。



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