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【田中角栄とその時代(7)首相就任と日中国交正常化【青木裕司と中島浩二の世界史ch:0298】



世界史参考書の超ロングセラー『青木裕司 世界史B講義の実況中継』シリーズの青木裕司先生と、福岡を中心に活動する人気タレント中島浩二さんの青木裕司と中島浩二の世界史ch」の文章版です(許可を得ています)。


中島:

歴史を紐解けば未来が見える。大人の世界史チャンネル中島浩二です。そして世界史の青木先生です。よろしくお願いします。


青木:

お願いします。


中島:

田中角栄さんを見ております。いよいよ総理大臣というところまでということですね。


青木:

1972年7月に彼は自民党の総裁選挙で勝利を納め、内閣総理大臣に就任することになるわけです。あの頃言われていたのが、田中さんの最大のライバルが官僚出身の政治家である福田赳夫さん。このシリーズでもお話しましたけども、福田さんと田中さんって同じ自民党なんだけど全然政治手法が違うんですよね。思想も違いますよね。

まず経済政策に関して言うと田中さんというのは高度成長、発展すれば良い。これは池田総理大臣と一緒で消費は美徳みたいなことをおっしゃる。それに対して福田さんというのは経済は成長せないかんけども山高ければ谷深し。バランスを取りながらの安定成長。経済が調


子良い、好況だと、必ずそのあとに不況が来る。そこらへんのバランスをうまく取りながらやっていくというのが福田さんの政治手法。なおかつ政治運営に関しても福田さんはなんとおっしゃっているか、「政治は最高の道徳であらねばならない」と。これに対して角さんは「政治は数」。


中島:

本当に対局にある2人が同じ党でというところですよ。


青木:

そこはある意味で自民党のおもしろいところというかね。自民党が長期にわたって政権を運営できたのも、いろんな考え方の人がいて、それがある意味で良い意味の喧嘩をやって、それが自民党のエネルギーを作ってきたんじゃないかなという感じがするんですよね。


中島:

去年からの一連のなんだかんだを見ていると、どうなのこれ?という。


青木:

前も言ったけど派閥そのものが悪いと僕はあんまり思ってないんですよね。いろんな考え方を持った人たちがバラエティに富んだ形で自民党には存在する。それをちょっとマイナスイメージで派閥と言ってるんだけど、普通そういうものでしょ、大きな組織って。

しかも50年前の派閥には政策論争があったんですよね。そこが僕は今の自民党と大きく違うところじゃないかなと思ってるので。

中島:

俺たちが見えていないだけかもしれないですけれども、寄らば大樹の影じゃないけれども、本当にいろんな人が右往左往しているだけの、そんな感じに見えて残念ですけどね。


青木:

そうですよね。田中さんとって最大のライバルは福田赳夫さんであったと。あと有力な候補として大平正芳さん、三木武夫さん。そしてまだ当時は弱小グループだったけども中曽根さん。三角大福中とか、頭文字だけを集めてそういうことが言われていたんですけども、ただ大平正芳さんというのはある意味田中さんの盟友で、大平さん自身は官僚出身の政治家なんですよ。なんだけども、生い立ちが田中さんに似てるんです。田中さんは新潟県で大平さんは香川県の貧しい農民の息子だったらしいんです。苦学して彼は確か一橋大学かな、かなり苦学するんですよね。結果的にはエリート官僚になるんだけども本当に苦労されてそのポジションにつかれたと。田中さんは学歴は違うけども苦労されて政治家になったと。そのへんでは共通するものがあって、本当の親友って大平さんが一番だったらしいです、田中さんにとっては。大平さん自身も田中さんのことをすごく尊敬して信頼していた。大平さんのほうがちょっと年上だったかな。でも対等の関係だったらしいです。

第1回の総裁選挙で田中さんが156票、福田さん150票。わずか6票差。


中島:

割れてますよね、二分するという。


青木:

このとき田中さんはびっくりして椅子から飛び上がった。なんで飛び上がったかというと、かなりお金をばらまいたらしいんです。なんだけども、盟友である大平にはあんまり恥をかかせたくないというので、ある程度は大平に入れゃいかんと。大平さん、実は101票入ったんです。それで予想もしない福田との間で接戦になっちゃったので椅子から飛び上がったと。このときの総裁選挙の資金が田中さん、一説には100億円。福田さん、一説には2億円。有名な話があって、田中派が札びらどんどん切っているというので、福田さんの部下の1人であった森喜朗さんが「うちもばらまいたほうが良いんじゃないですか?」と言ったら、「そんなことだけは絶対に言うな」と怒られたと。森さんらしいというか。

森さんもいろいろ問題のある人だけど、おっちょこちょいというかね、そういうことを一番言っちゃいけない人に言ってしまうというね。


中島:

おもしろいですよね。


青木:

2回目の決戦投票では大平さんに入っていた票が田中さんに回ってくるわけです。282対、福田さん190で田中さんが晴れて自民党総裁。そして衆議院における総理選挙、首相選挙で彼は首相に就任することになったわけですね。


これが7月なんですが、その2か月後に彼は大仕事に着手する。これが日中国交正常化。


中島:

本当にすごいですよね。アメリカだって国交を結んでいない中でいきなり行っちゃったという。アメリカはびっくりしたでしょうけどね。


青木:

びっくりしたし怒ったらしいです。


中島:

そうなんですよ。キッシンジャーとかはめちゃくちゃ怒ったという話ですよね。


青木:

そう。「ジャップは我々の上前をはねる」と。「ジャップ」ってね。


中島:

でもそのぐらいの男がおったという話ですよね。


青木:

逆に言うとね。キッシンジャーってある意味田中さんにとって非常に重要な人物になるので、それは日中国交正常化のときもそうだった。おもしろいなと思ったのは田中さん自身、陸軍の兵士として中国、当時は満州と言っていたけどそこに行ったじゃないですか。彼が通産大臣の頃に、総理大臣になる前に衆議院の予算委員会で社会党の議員から質問をされたらしいんです。「日中国交正常化の機運が高まっている。通産大臣である田中さんはどう思われますか?」と言われたときに彼は「自分も兵士として中国に派遣された。中国に対しては大きな迷惑をかけた。そして心からのお詫びがないと国交正常化というのは難しいだろう。中国との友好関係というのはできないだろう」と。この発言をどうも中国側がキャッチしたらしいですね。総理大臣に一番近いところにいる田中角栄という男はそういう姿勢でもって我々に対処する、それをキャッチしたらしい。実際に9月に田中さんが訪中しますよね。宿舎に着いたときに早坂さんがびっくりしたことがあった。それはなにかというと、食卓に台湾バナナが置いてあった。これは田中さんの大好物。それから木村屋のアンパンが置いてあった。これも田中さんの大好物。そして彼の地元柏崎の西巻というお店があって、そこの3年物の味噌、その味噌汁が置いてあった。


中島:

すごい話ですよね。なんでも調べ上げて、接待するってそういうことだということでしょうね。


青木:

全部調べて田中という男を心の底から歓迎する。それってシグナルになるじゃないですか。中国側も友好関係を作りたいんですよと。それが言葉を返す前にわかるというんです。これは早坂さんがびっくりしたと言ってたんですよね。田中さんが訪中する前に公明党の当時委員長だった竹入義勝さんが訪中をして、周恩来との間で下交渉を実はやっていると。そのときに中国側の要求を竹入さんがメモをして、通称竹入メモ。中国側の要求、ポイントは2つあるんです。1つは中華人民共育を唯一無二の政府として認めてくれ。要するに台湾とは断交する、台湾は国家として認めない。もう1つ、我々中華人民共和国は戦争時の賠償をあなたたちに要求しない。これだったらお互いに交渉が成立をする。田中さんも竹入さんからもらった竹入メモを見てこの線で行こうと。そこは速戦即決ですよね。

日中国交正常化をこのチャンネルでも前に話したことがあったけども、このときに早坂さんと議論になったらしいです。なぜ親父はあのとき一気呵成に日中国交正常化をやろうとしたか。すると田中さんがこうおっしゃったらしい。「毛沢東と周恩来の目玉が黒いうちにやらなきゃと思ったんだよ」と。「2人は何度も死線をくぐって共産党政権を作った創業者だ。中国人民にとって肉親を殺された憎き日本と和解し、しかも賠償を求めないなんて決断は創業者じゃないとできない。毛沢東と周恩来が言えば中国国民も納得する。2人がいなくなって2代目になったら日本に譲るなんてことはできるはずもない」当時毛沢東は老いさらばえているし、周恩来に関しては癌にかかったという噂もあったんです。彼らがまだ一応元気なうちに日中国交正常化は一気呵成にやる必要性があると。今から思うんですけどあのタイミングじゃないとできなかったんじゃないかなと。

それこそ田中さんってそういう機を見るには敏だったということですね。盟友である大平さんが外務大臣として、政府のスポークスマンである官房長官は二階堂進さん。こういった人たちを連れて彼は行くわけです。

ただ最初の会談のときに田中さんが「我々日本は中国に対してご迷惑をおかけした」と。それが読み上げられたときに中国側から異論が出たんです。


ご迷惑という言葉は非常に軽い表現であると。道端を歩いていて水をまいている人から水がかけられてかかったと。そのときにご迷惑という言葉は使う。でも日本が中国で行った戦争に対する謝罪の言葉として「ご迷

惑」というのは軽すぎるんじゃないかというので揉めたらしいんです。田中さんは「そんなに怒るわけ?」ってちょっと紛糾するわけですよ。外務大臣であった大平さんとかが「どうしたらいいんだ、どうした言葉が」と悩んでいると田中さんが「君たち大学卒業者というのはこういうときに弱いな」と。「だったら総理、あなたも考えてくださいよ、良い言葉を」と。「そういうことは大学出の君たちがやるべきだろう」と。


中島:

おもしろいですよね。


青木:

なんかそういうところもね。結局当時の総理大臣が周恩来なので、4回ぐらい周恩来とやってますよね。いろんな揉め事はあったけどもお互いに国交正常化したいというのは事実なので話はまとまるわけです。まとまったぐらいのところで毛沢党の秘書がやってきて、毛沢東主席がお会いしたいと言っていると。予定になかったらしいです。ひょっとしたら毛沢東と会見があるかもしれない、ニクソンも会ってるので。ただ毛沢東、当時は行政部にいるわけじゃないので会えるかどうかわからなかった。行って、そしたら毛沢東が第一声で「もう喧嘩は済みましたか?」と。


中島:

向こうも向こうでやっぱりすごいですね。


青木:

大平さんと田中さんが毛沢東と握手をして日中国交正常化がなるわけです。ただ先ほどの話なんだけども、この流れを聞いてキッシンジャーが「おい、正常化までやるのか」と。一般的に仲良くやりましょうというのはアメリカもやったわけです。ただ国交正常化をやるためには台湾との関係性が問題になるわけです。アメリカとしてはこれまで実際上軍事同盟を結んでいた台湾を簡単に切るわけにいかんと。日本は簡単に切るわけ?キッシンジャーはここで激怒するわけ。我々が中国との友好関係を切り開く道筋を作ったけども、日本はそのあとからやってきて国交正常化までやってしまった。台湾を切ってしまった。キッシンジャーがのちに言うんです。「ジャップは我々の上前をはねた」と。これで日本政府、特に田中さんに対してキッシンジャーは非常に悪い感情を持つようになったわけです。

日中国交正常化といえばいろいろ問題は言われますけども、田中外交のひとつの大きな成果であったのは間違いない。一方でこれがキッシンジャーにとっては大きな恨みを残すことになるわけです。


中島:

じゃあ次回にしますか。









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