今回に限ったことではないんですが、院号なども全部「あだ名」でまとめるのは、ほんとうはムリがありますよね。
ただ、そのへんの区別をつけていくと、キリがないという。。。
もくじ:海道一の弓取り
【海道一の弓取り】
今川義元の異名といえば、「海道一の弓取り」。
東海道一の戦国大名という意味です。
ただ、同時代から「海道一の弓取り」と呼ばれていたかというと、不明というほかはないです。
いつ頃から今川義元が「海道一の弓取り」と呼ばれ始めたのかは分かりませんでしたが、
ネットの声だと、大正ぐらいまでは遡りそうだというものがありました。裏は取っていないです。
一つヒントになりそうなものが、江戸時代末期の浮世絵師・歌川国芳の「太平記英雄伝」にありました。
この浮世絵の上部の文章の2行目に「街道一の大身」とあります。
「街道」とは東海道のことです。
このように、同じような呼ばれ方は江戸時代にもあったようですが、今川義元を「海道一の弓取り」と呼ぶことは、江戸時代には定着していなかった可能性が高いと思います。
なお、徳川家康も「海道一の弓取り」と呼ばれるのですが、こちらは少なくとも江戸時代ごろには「海道一番ノ弓取」と見えています。
参考:国立公文書館HPの『東武談叢(とうぶだんそう)』(19世紀の写本っぽい)
東三条院
藤原詮子は、出家したときに皇太后職を止めて、太上天皇(円融太上天皇)に準じて「東三条院」という院号を授けられました。
これが女院号のはじめとされています。
東三条院とは詮子の父・藤原兼家が住んでいた東三条第にちなんだ号です。
兼家は道長の父でもあり、藤原道綱母の夫でもありますね。もちろん、摂政・関白・太政大臣となった権力者です。
詮子は東三条第で懐仁親王(一条天皇)を生みました。
Wikipediaには「女院となってからは東三条殿に住んでいない」とありましたが、まだ裏は取ってません。
この後、日本史バトルは、子ども対決、武力対決と進んでいきますが、ここで力が尽きました。そのへんはまたの機会か追記で触れたいと思います。
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