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執筆者の写真順大 古川

敦康親王「光る君へ」人物事典070

更新日:10月20日

【目次】




敦康親王(あつやすしんのう):高橋誠

まずは、NHK公式の紹介を引用して、大河ドラマ上での設定を確認しておきましょう。


一条天皇の第一皇子。母は藤原定子


後ろ盾の中関白家(道隆・定子の家系)が壊滅的な情況だったので、敦康親王には後ろ盾がいません。そこで道長は、、、残酷な話です。


キャスト1:高橋誠(たかはしせい)


キャスト2:池田旭陽(いけだあさひ)

2016年生まれ。かばす所属。小学館「幼稚園」のレギュラーです。



キャスト3:渡邉櫂(わたなべかい)

2013年生まれ。NEWSエンターテインメント所属。「踊る!さんま御殿!!」「ぐるナイ」「波よ聞いてくれ」などに出演しています。



キャスト4:片岡千之助(かたおかせんのすけ)

④一条天皇と定子の第一皇子。道長の長女・彰子のもとで養育され、次の東宮候補だったが、彰子にも皇子が生まれたことで運命が変わってゆく。母代わりの彰子を慕うようになる


なんか、不穏なこと言われ始めてきたんだけど。。。光源氏。。。


2000年生の歌舞伎役者、俳優です。東京都出身です。大河ドラマは初出演です。


解説:実際の敦康親王

生年:999年ー没年:1018年


一条天皇の第一皇子で、母は定子。定子の家系(中関白家)の大没落によって、史上初の、第一皇子なのに東宮になれなかった親王となってしまいます。


道長は、最初は敦康親王を大切に扱うのですが、彰子が懐妊すると、ビックリするぐらい手のひらを返して敦康親王を冷遇し始めます。



27回「宿縁の命」(999年)ごろの敦康親王

11月7日、彰子が女御となる日の朝に生まれました。

一条天皇は満面の笑顔で喜んで、敦康親王のためにいろいろと手配をするのですが、出家した定子が男子を生むことは貴族社会では歓迎されませんでした。

ドラマでもそうでしたが、公卿たちはみな、彰子の邸にお祝いに駆けつけています。



28回「一帝二后」(1000年)ごろの敦康親王

妹の媄子内親王が生まれますが、後産が下りずに定子ママが亡くなってしまいます。敦康親王、満1歳と1ヶ月のできごとでした。




29回「母として」(1001年)ごろの敦康親王

失脚した定子伊周系(中関白家)の落し子で、一条天皇だけが公卿社会の空気を読まずに浮かれている情況なので、敦康親王は公卿社会の腫れ物です。

そんな空気の中、一条天皇のゴリ押しで藤原行成が敦康親王の家司別当(けいしべっとう)になります。家司別当とは、敦康の生活費を切り盛りする敦康家執事長的なポジションです。


敦康親王が伊周・隆家に取り込まれないように、敦康親王(と脩子内親王)は内裏の弘徽殿で養育されることになります(一応、「母代」の御匣殿(道隆の四女)という後見人もいます(1002年死去))。

さらに8月、敦康親王はなんと故定子のライバルである彰子に育てられることになります。これにともなって、敦康親王は中宮彰子の住まう飛香舎にうつります。

幼い彰子には当面子どもは望めないという情況で、道長が親王カードを天皇との関係を保つための保険として手元にキープしておくためです。政治の世界はかくも冷徹なものなんですね。

ドラマでは、「人質」とまで言い切りました。詮子姉さんの発案でした。



道長が娘の彰子に敦康親王を養育させたというのも残酷な話。一条天皇に入内するも幼くてほとんど相手にもされない彰子にとって、敦康親王は夫一条天皇が生涯をかけて愛した定子の忘れ形見なんです。そんな恋敵の子を、まだ10代なかばの彰子が育てなければならないのです。約13歳の彰子はどのように感じたのでしょうか。


8月3日に敦康親王が彰子の上盧に来て、11日に敦康親王の魚味始(まなはじめ)の儀が執り行われます。


11月13日、彰子が住んでいる飛香舎で敦康親王の着袴の儀が行われます。このころ、まだ敦康親王は彰子とは同居していません。

ところが、11月18日にはまた内裏が火事になります。タイミングが良すぎるので、ライバル筋の放火も疑われています。

このとき、敦康親王は一条天皇と彰子に連れられて、一度職御曹司に移ります。

22日には、一条天皇と彰子に連れられて、一条院に移ります。




30回「つながる言の葉」((1002~)1004年)ごろの敦康親王

長保四年(1002年)

彰子のお家で育てられています。母代わりの御匣殿(定子の妹)が亡くなります。

一条天皇は敦康親王をものすごくかわいがり、道長は敦康親王をしっかりと後見します。


長保五年(1003年)

8月に病になります。安倍晴明に占わせたところ、「邪気じゃー!」ということになったので、邪霊のお祓いや、加持、御修法などが行われます。


一昨年前に二度目の火事にあった内裏が建て直されたので、10月8日に一条天皇と彰子が新造内裏に遷るのですが、敦康親王は道長邸を経て、隆家邸に一度移りました(その後は、内裏にいたり道長の枇杷第にいたりするようです。)。



長保六年/寛弘元年(1004年)

正月17日、内裏に入って、彰子の飛香舎(藤壺)で養育されます。


ドラマでは、一条天皇に「定子に似てきたなー」って言われていました。彰子の前でそれ言うか⁉️

敦康親王はこの時点で一条天皇の血を受け継ぐ唯一人の皇子なので、ドラマでも史実でも、一条天皇からとても大切にされています。ドラマでは、ひょうたんに猫を描いてもらって喜んでいました。


あと、この時点での敦康親王は道長にとっても大切なカードなので、道長も全力で敦康親王をバックアップしています。




31回「月の下で」(1004年)ごろの敦康親王

第30話と同じです。



32回「誰がために書く」(1005年)ごろの敦康親王

寛弘二年(1005年)

3月27日、敦康親王は一条天皇と対面します。

10~11月、敦康親王は近江を巡礼します。道長・倫子・妍子もいっしょです。

11月13日、敦康親王の読書始が行われます。一条天皇が密かに覗きにきました。



33回「式部誕生」(1006年)ごろの敦康親王

敦康親王は満年齢で約7歳です。約18歳の彰子ちゃんとお手玉をしていました。(義理的な)親子というよりは兄弟のような二人でした。


記録には、目立った話は残っていません。



38回「まぶしき闇」(1009年)ごろの敦康親王

寛弘六年(1009年)

ドラマでは、彰子ちゃんが好きすぎて、「大人になりたくな~い」とか言っています。令和っ子か!?

9月24日、一条天皇が彰子の御産を理由に、敦康親王の元服を延期することを提案しだします。



39話「とだえぬ絆」(1010~1011年前半)ごろの敦康親王

寛弘六年(1009年)

12月26日、敦康親王の御読経が行われますが、道長はいいわけしてスルーします。なお、前年に彰子から敦成親王が、前月にも彰子から敦良親王が生まれています。


寛弘七年(1010年)

7月17日、元服します。加冠役は道長です。




その後の敦康親王

寛弘八年(1011年)

5月7日、敦康邸で、お家の「天井に瓦礫を投げ入れる声がする」という怪異が起こります。

6月2日、一条天皇の崩御を前にして立太子の希望が完全に潰えます。敦康親王は一品に叙され、本封の他に封一千戸を賜り、三宮に準じて年官年爵も給されます。

7月8日、敦康親王が(に?)、一条天皇の遺詔を伝えます。


寛仁二年(1018年)

12月17日、没します。望月の歌から2ヶ月後です。



一条天皇に死期が近いたとき、三条天皇の次に即位する東宮を決めることとなりました。前例に従えば、一条天皇の第1皇子である敦康親王が第1候補なのですが、道長の力によって、彰子の息子で四歳の敦成親王が東宮に立てられました。こうして、敦康親王は史上初の、第一皇子なのに東宮になれなかった親王となってしまうのです。


この後も敦康親王は忘れられたような存在となり、ていうか、道長にガン無視され続けて、

道長が栄華の絶頂で望月の歌を詠った裏で、その2ヶ月後にひっそりと亡くなりました。



年表

では、敦康親王の略年表を示します。年齢は数え年です。


999年:1歳。11月7日、誕生。

1000年:2歳。4月17日、親王宣下。

      12月16日、定子ママと死別。

1002年:4歳。中宮彰子に養育される。

    8月11日、彰子の上盧で魚味始(まなはじめ)

    11月13日、彰子の御在所の飛香舎で着袴の儀。

1010年:12歳。7月17日、元服。叙三品。

1011年:13歳。6月2日、一条天皇の譲位を前にして、一品准三宮(東宮になれなかったということ)。

1016年:18歳。正月29日、式部卿(後一条天皇即位のときにも東宮になれなかった)。

1018年:20歳。12月17日、没。

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