top of page

藤原妍子 「光る君へ」人物事典062

更新日:3 日前

【目次】


藤原妍子(ふじわらのきよこ】:秋山加奈

まずは、NHK公式の紹介を引用して、大河ドラマ上での設定を確認しておきましょう。


藤原道長の次女。母は源倫子

②藤原道長と嫡妻・倫子の次女。東宮・居貞親王(のちの三条天皇)の妃となるが、東宮がはるかに年長であることに不満を抱く。キラキラした贅沢な衣装や道具が好き。


24話が初登場だったかな。

28話で、さっそくキラキラが好きと言われていましたね。将来は、、、


キャスト1:秋山加奈(あきやまかな)

Space Craft所属の子役で、2018年6月5日生まれです。



キャスト2:倉沢杏菜(くらさわあんな)

2005年生まれの女優です。レプロエンタテインメント所属です。片目をきれいに閉じることが得意だそうです。

大河ドラマは初出演です。



6歳ぐらいなので、裳着もまだまだ先のことです。


大人になった妍子は贅沢なキラキラ女子として有名なのですが、

ドラマでも、倫子ママが「妍子はキラキラした華やかな装束や遊び道具が好き」と言っていたように、すでにキラキラ女子の鱗片をうかがわせました。三つ子の魂百までですね。



30回「つながる言の葉」((1002~)1004年)ごろの妍子

長保五年(1003年)約9歳

2月20日、枇杷第で、頼通(約11歳)の元服と、妍子(約9歳)の着裳が行われます。


長保六年/寛弘元年(1004年)約10歳

11月27日、従三位尚侍となります。東宮居貞親王(三条天皇)と結婚するための布石です。

12月7日、従三位となります。



寛弘二年(1005年)約11歳

3月8日、彰子姉さんの大原野社行啓に付き合わされます。妍子ちゃんは糸毛車に乗って行きました。


10月、敦康親王の石山詣に、道長・倫子とともに付き合わされます。

彰子姉さんから歌が届いたので、妍子は「お姉ちゃんもいっしょに来ればいいのに」と返事をします。


解説:実際の藤原妍子・その後の妍子

妍子は枇杷(びわ)皇太后ともよばれます。藤原道長倫子の二女で、三条天皇の中宮となります。正暦五年(994年)に生まれ、約16歳ぐらいで東宮居貞親王(三条天皇)と結婚します。禎子内親王(陽明門院)を生みました。

三条天皇が即位すると女御となり、中宮⇢皇太后と順調に進みます。

ただ、約33歳ぐらいの若さで崩御してしまいます。


質素倹約を好む彰子姉さんと違い、妍子は贅沢好きで、道長や彰子を何度も困らせます



【その後の妍子(ネタバレ注意)


寛弘五年(1008年)約14歳

道長パパから、『源氏物語』の原本をもらいます。


寛弘七年(1010年)約16歳

2月20日、東宮居貞親王(三条天皇)に参入(結婚)します。亥の刻に、東宮御所一条邸に入ります。このとき、彰子の女房8人が同行します。


寛弘八年(1011年)約17歳

6月13日、夫の居貞親王が践祚して、三条天皇となります。

8月23日、女御となります。ただし、ライバルの藤原娍子(せいし/すけこ)も同時に女御となっています

10月16日、三条天皇の即位式です。


長和元年(1012年)約18歳

2月14日、中宮となります。

4月27日、ライバルの藤原娍子が皇后になりやがります。

そこで道長ファミリーは、一家をあげて、いやがらせします

まず、同じ日に妍子が内裏の飛香舎に参入します。

空気を読んだ公卿たちは、娍子の立后の儀式には参加しません。三条天皇が参加するように命じても参加せず、笑っています。いやなヤツらですね。さらには、天皇からの使者に石を投げるヤツまでいます。マジか、こいつら。

道長は道長で、娍子立后の宣命から大事な文言を消して、皇后を象徴する調度品を娍子のもとに運ばせませんでした。徹底したいやがらせですね。

一応、学界の研究動向も踏まえたうえでフォローしておくと、三条天皇の娍子立后も相当強引で、当時の貴族社会の慣習を無視したものでした。まあ、私が大キライな「いじめられる側が悪い論理」に聞こえなくもないのですが。。。


6月、道長パパが重病となります。


長和二年(1013年)約19歳

懐妊したので東三条殿に遷ります。

東三条殿が火事になったので、藤原斉信の郁芳門第に遷ります。

このころ、妍子が連日宴会を開いてパーティーピーポーしてるので、公卿たちが出費がかさんで困っている。こんなことを続けていたら、道長パパが死んだときに公卿たちが手のひら返して裏切るんじゃないかと、彰子姉さんとが心配しています。なお、彰子姉さんは、自分たちの宴会を中止にしています。

4月、彰子御所の宴会で彰子姉さんとプレゼント交換をします。妍子は斉信からもらったものを彰子姉さんに贈りました。

翌日に、彰子姉さんは、「人からもらったものを、他の人にプレゼントとして流すのはどうかと思うわ」と、昨日のプレゼントを妍子に返しました。妍子は、「じゃあ、私が彰子姉さんにもらったものも返しますわ」とプレゼントを返しましたとさ。

7月6日、禎子内親王を生みます。初産なのに、産気づいてから二時間程度という、ちょうーぜつ安産でした。

生まれたのが女の子だったので、道長は露骨に喜びません。ロバート実資が「あの道長の態度、ないわ~」と日記に書き記すほどです。

産養の儀も盛り上がらないので、吹雪のようにコールドな雰囲気に根負けした三条天皇は、本来は皇子にしか贈らない剣を、禎子内親王に贈りました。

五十日の儀でも道長が酒を飲まないという態度なので、参加した公卿もとてもじゃないけど飲めません。ロバート実資が「ないわ~」と日記に書き記すほどです。


長和三年(1014年)約20歳

2月9日、内裏が火事になります。

4月9日、三条天皇とともに枇杷殿に遷ります。


長和四年(1015年)約21歳

9月20日、天皇と東宮が内裏に遷りましたが、妍子は枇杷殿に留まります。

10月27日、夫の三条天皇の眼病が悪化します。

11月17日、内裏が火事になります。

11月19日、おそらく天皇といっしょに枇杷殿に遷ります。


長和五年(1016年)約22歳

正月29日、三条天皇が譲位します。

7月26日、穆子おばあちゃんが没します。約85歳でした。

9月、枇杷殿が放火で焼け落ちたので、道長の高倉第に遷ります。


寛仁元年(1017年)約23歳

5月9日、三条院が崩御します。


寛仁二年(1018年)約24歳

10月16日、威子が中宮となるにともなって、妍子は皇太后となります。この日、道長パパが望月の歌を詠います。

10月21(22?)日、道長倫子彰子妍子、威子が一堂に介します。妍子が彰子姉さんに会ったのは5年半ぶりです。

12月、道長パパの法華八講がありましたが、「雨なので、明日行くわ」と欠席します。メッセンジャーは皇后宮大夫の道綱です。道長パパは激怒して、大雨の中、妍子の御所まで迎えに来ます。ロバート実資は日記に「わら」と書いています。


寛仁三年(1019年)約25歳

3月21日、道長パパが出家したので、彰子も妍子も威子も駆けつけます。


寛仁四年(1020年)約26歳

2月、道長パパが無量寿院(後の法成寺)に仏像を安置したので、彰子・妍子・威子が行啓します。

3月22日、無量寿院の落慶供養に、彰子・妍子・威子が行啓します。


治安元年(1021年)約27歳

2月、世の中で疫病が流行して屍人が平安京の道端に溢れていますが、頼通なんかの公卿を妍子第によんで、ハデにパーティーピーポーします。ロバート実資は日記で「あいつら、庶民の状況分かってんの?」と批判しています。

2月28日、倫子ママが出家します。

9月、無量寿院でハデに法華経を写経して、ハデに供養します。言っている意味が分からないと思いますが、ハデです。

まず、道長一家と側近がハデに勢揃いして、ハデな格好をした女房を30人引き連れて、お経の上下に絵を描いて金銀の枝をハデにつけて、ハデな玉や七宝で飾りました。お経をですよ。そんで、ハデな紫檀製の経箱に納めましたとさ。


治安二年(1022年)約28歳

7月、無量寿院が寺号を法成寺と改めて、新仏開眼供養をするので、彰子、妍子、威子、禎子内親王が参加します。


治安三年(1023年)約29歳

4月、禎子内親王の裳着です。ちなみに、妍子と禎子内親王は枇杷殿に住んでいて、この日は彰子の京極殿に行って、裳着をしています。『栄華物語』によれば、妍子は、彰子姉さんをはじめ、女房や下仕にまでハデにプレゼントをばらまいています。

4月19日、病気の倫子ママを、妍子・威子・嬉子が見舞います。

10月13日、倫子ママの60歳祝に参加します。主催は彰子姉さんです。


万寿二年(1025年)約31歳

正月23日、皇太后妍子が枇杷殿で大饗を行います。女房たちの衣裳がハデすぎて、頼通兄さんに説教されます。頼通は、次の日に道長パパから「オマエがちゃんと言わないからだぞ」と叱られます。頼通、、、不憫な子。。。

2月、しょうこりもなくパーティーピーポーします。


万寿三年(1026年)約32歳

彰子姉さんが出家したときに、尼装束を着せる役をします。


万寿四年(1027年)約33歳

春から病気がちです。

3月27日、娘の禎子内親王が東宮に参入(結婚)します。妍子は病気にかかっていて、禎子内親王の婚礼に立ち会えませんでした。

5月、頸と肩に激痛が走ります。禎子内親王が見舞いに来ますが、妍子は食事も摂れない状態となります。

7月、手足に浮腫をきたし重篤となります。

8月、最後の仏頼みのために、法成寺にうつります。

9月14日、倫子ママの京極院今南にうつって、未の刻に出家し、崩御します。木幡に葬られます。このとき、道長パパは病気をおして歩いて従いました。ほんとうに最後の力を振り絞ったんだと思います。

12月4日、道長が没します。


年表

では、藤原妍子の略年表を示します。年齢は数え年です。


994年:1歳。誕生。

1004年:11歳。11月、尚侍従三位。

1010年:17歳。正月、叙従二位。2月20日、東宮居貞親王(三条天皇)と結婚。

1011年:18歳。三条天皇即位⇢8月23日、女御となる。

1012年:19歳。2月14日、中宮となる。このとき、皇太后遵子は太皇太后に、中宮彰子は皇太后となる。

1018年:25歳。10月16日、皇太后となる。このとき、女御藤原威子が中宮となる。

1027年:34歳。3月23日、所生の禎子内親王(陽明門院)を東宮敦良親王(後朱雀天皇)に入れる。

    9月14日、病により法成寺近くの今南殿で出家⇢崩御。

    9月16日、大谷大峯寺前野で火葬⇢遺骨は木幡に葬られた。


閲覧数:48回0件のコメント

最新記事

すべて表示

Comments


bottom of page