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執筆者の写真順大 古川

藤原道雅(松)「光る君へ」人物事典069

更新日:10月14日


【目次】



藤原道雅(ふじわらのみちまさ):小野桜介

まずは、NHK公式の紹介を引用して、大河ドラマ上での設定を確認しておきましょう。


藤原伊周の長男。のちの藤原道雅。


幼いときは、道隆に嫡孫として超絶可愛がられます。道雅は少し在原業平みのある、けっこう面白い大人になります。ドラマにもたくさん出てくると面白いのですが。

あと、原作(史実)では、やたらと彰子に好かれています


キャスト:小野桜介(おのおうすけ)

ホリプロ・インプルーブメント・アカデミー所属。2013年生まれです。


キャスト:福崎那由他(ふくざきなゆた)

茨城県出身の俳優です。2001年生まれです。アミューズ所属です。

大河ドラマは初出演です。

解説:実際の道雅

藤原伊周と源重光の娘(ドラマでは「源幾子」】の長男です。伊周がまだ10代の、正暦三年(992年)に生まれました。実際の幼名も「松君」で、祖父の道隆もまだ健在でした。24歳ごろに従三位となってから、62歳ごろに死ぬまでそのままでした。


ドラマ初登場は29話です。

三条院の皇女前斎宮当子内親王と密通して院の勘当を受けたり、暴力沙汰を何度も起こしたりと素行が悪く、荒三位と呼ばれます。


歌人としては一流で、中古三十六歌仙の一人に数えられ、『後拾遺和歌集』以下の勅撰集に七首の作品をとどめます。八条の山荘で何度か歌会を催し、晩年は時勢を諦観して、八条の山荘に閑居して受領歌人たちとの雅交に安住したといいます。


 【小倉百人一首】

今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 伝てならで 言ふよしもがな

(左京大夫道雅)




15~17回「うつろい」(993~995年)ごろの松

992年生まれの松君(道雅)は伊周の長男で、祖父の道隆に可愛がられたそうです。

しかし、祖父は995年に死去します。



18~21回「旅立ち」(996年)ごろの松

長徳の変で、父伊周が大宰府に左遷されます。叔父の隆家も左遷され、伯母の定子は出家します。

約4歳の松君(道雅)は、この時の家の雰囲気の変化をどう感じ取ったのでしょうか。



22回「越前の出会い」~25回「決意」(997~998年)ごろの松

997年中に父伊周と叔父隆家が京に戻ったとはいえ、落ちぶれています。

伯母の定子は出家したことに加えて、お家が火事で全焼する始末。

母(源幾子)方の祖父源重光はすでに引退していて、75歳ぐらいのおじいちゃんです。また、998年7月には重光は亡くなります。


このように、松君には頼れる人がいないので、今でいうと小学1年生くらいの松君は、そうとうに苦しい生活を余儀なくされたと思います。



29回「母として」(1001年)ごろの松

ドラマに初めて登場しました。このとき約8歳です。

ドラマでは、ダメパパの伊周に舞を叩き込まれていました。この教育は後々にどんな影響を与えるのでしょうか。追記:34話で、早速その”成果”が現れていましたね。



30回「つながる言の葉」((1002~)1004年前半)ごろの道雅

長保六年/寛弘元年(1004年)約12歳

正月6日、叙爵(元服前で、当時は珍しいパターン)。中宮御給の名簿に道雅の名が見える。



32回「誰がために書く」(1005年)ごろの道雅

寛弘二年(1005年)約13歳

正月4日、元服して、昇殿を聴されます。伊周がまだ復権できてないので、隆家が挨拶に連れ添います。


34回「目覚め」(1006年後半~1007年前半)ごろの道雅

寛弘四年(1007年)約15歳

正月13日、一条天皇の蔵人となります。道長は若輩の道雅を約34歳の惟規に補佐してもらおうとして、惟規も蔵人とします。、、、完全に人選ミスですね。

ドラマでは、早速29話で舞を強要されていたフラグを回収してきましたね。


20歳ごろ、春宮敦成親王(のちの後一条天皇)に仕えます。



36回「待ち望まれた日」(1008年)ごろの道雅

寛弘五年(1008年)約16歳

9月17日、彰子の子敦平親王の産養に勅使として遣わされます。大嫌いなパパの敗北が確定したんだけど、今どんな気持ち?

10月5日、弓場始で失錯が多かったことを、ロバート実資にディスられています。




39話「とだえぬ絆」ごろの道雅

寛弘七年(1010年)約18歳

正月28日、伊周パパが死にます。

ドラマでは、パパの遺言で「出家しろー」とか言われましたが、その後の道雅を見てると、、、無視して好き勝手生きていますね。


その後の道雅

長和二年(1013年)約21歳

このころ、春宮権亮です。

4月、皇太子敦明親王(三条天皇の子)の従者小野為明が、敦明親王の使者として、敦明親王の母娍子が住む内裏の弘徽殿に参上しました。

すると、道雅の指図により、なんと内裏の中で、小野為明を拉致させて道雅の自邸へ連行させます。そこで道雅は自ら為明の髪を掴んで周囲の者に打ち踏ませ、瀕死の重傷を負わせました。その後、敦明親王に訴えられて、道雅は謹慎処分となりました。

……荒三位よ



長和四年(1016年)約24歳

正月、従三位となります。

9月、伊勢斎宮の任を務め終わって帰京していた当子内親王と密通しやがります。当子内親王の父三条院は激怒して、道雅は勅勘をくらいます。さらに、当子内親王は母親の娍子のもとに幽閉されて、ショックで出家します。小倉百人一首の歌は、この事件を悲しんだ道雅のセルフロミオメールです。

……荒三位よ

初冬(翌年?)、三条院の勘当を受けます。




万寿元年(1024年)約32歳

12月6日、花山院の皇女・上東門院女房が夜中の路上で殺され、翌朝に野犬に食われた死体が発見されるというショッキングな事件がおきます。

検非違使が三ヶ月も捜査にあたって、とっ捕まえた容疑者(僧形の隆範)を、四ヶ月も拷問しまくったところ、容疑者は道雅の命で上東門院女房を殺害したと自白します。ロバート実資を含め、世の人々は道雅を疑います。

すると、容疑者の自白から3日後という偶然にしてはとてもタイミングがよすぎる日に、アイ・アム真犯人と自称する別の盗賊が自首してきます

その後この事件がどうなったのかが記録に残っていないため、真犯人は歴史の闇の中です。道雅のような上級貴族が皇族を殺害するような事態は貴族社会で想定されてなかったこともありますし、出家後の花山院の皇女のほうも堂々と表に出せるような存在じゃないので、どうにか手打ちにするしかないのです。今も昔も、、、ですね。

なお、事件発生から2年後のことにはなりますが、万寿三年(1026年)に、道雅は左近衛中将兼伊予権守を罷免されて、右京権大夫に左遷されています。

……荒三位……なのか⁉️



万寿三年(1026年)約34歳

中将を罷免されて、右京権大夫に左遷されます。なお、前代未聞レベルの降格です。


万寿四年(1027年)約35歳

7月18日、帯刀長高階順業のお家に遊びに行って、ギャンブルに興じます。双六とか囲碁でしょうかね。道雅は賭博中にリアルレスバ(口論)を始め、順業のフレンド惟宗兼任もからんできて路上で乱闘します。このとき、たくさんの見物人が集まってきたといいます。

……荒三位よ


晩年は、八条の山荘で閑居します。このとき、出家していたのかなあ。。。


(1044年)約52歳

八条の山荘で歌会を催します(『家経朝臣集』)。


(1045年)約53歳

右京大夫に復します。


(1047年)約55歳

八条の山荘で「左京大夫八条山庄障子和歌合」を催します(二十巻本歌合巻ほか)。


(1054年)約62歳

7月20日、没します。



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