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執筆者の写真順大 古川

藤原道長 「光る君へ」を楽しむ人物事典002

更新日:10月20日


【目次】



藤原道長:柄本佑

まずは、NHK公式の紹介を引用して、大河ドラマ上での設定を確認しておきましょう。


平安の貴族社会で、最高の権力者として名を遺した男性。名門、藤原北家に生まれ、兄の道隆道兼の陰で、一見目立たない、しかしどこか光るもののある青年貴族に成長する。やがて思わぬ事態が重なり、若くして政権の中心に躍り出ることに。戸惑いながらも、次第に政治家としての力をつけていき、その非凡さが表出。道長は、娘たちを次々と天皇の后きさきとし、続く代々の天皇の外戚となることで、頂点に上りつめていく。

まひろ(紫式部)とは幼いころに出会い、のちに「源氏物語」の執筆をバックアップし、后となった娘に学問を授けさせるために宮中に出仕させる。二人には身分差があり、一定の距離があるかに見えるが、じつは、その心は生涯離れることのできない、ソウルメイトとしてつながっていた。互いの人生の輝き、喜び、そして苦しみをつぶさに見つめあうことになる。


藤原兼家の子ですが、五男(後述)なので元来将来の見通しは明るくありません。実際に、長男の道隆なんかがさっさと出世していきます。

ドラマで「三郎」なのは、時姫の三人目の男の子ということですね。ほかに、道綱などの寧子(ドラマ上の名前。いわゆる藤原道綱母)の息子が二人いるので、一般には五男とも言われます。

事績が多すぎるので、まずは年表をご参照ください。



柄本佑(えもとたすく)

いったん、NHK公式の紹介を引用しておきます。随時加筆していきます。


1986年生まれ東京都出身。2003年、映画『美しい夏キリシマ』で主演デビュー。同作で第77回キネマ旬報ベスト・テン新人男優賞、ほかを受賞。2019年には主演を務めた3作品『素敵すてきなダイナマイトスキャンダル』、『きみの鳥は歌える』、『ポルトの恋人たち 時の記憶』で第73回毎日映画コンクール男優主演賞などを受賞した。近年の主演映画に『火口のふたり』、『痛くない死に方』、『先生、私の隣に座っていただけませんか?』、ドラマでは連続テレビ小説「あさが来た」、「スクラップ・アンド・ビルド」「心の傷を癒いやすということ」、「空白を満たしなさい」(NHK)、「知らなくていいコト」、「初恋の悪魔」(日本テレビ)、「天国と地獄~サイコな2人~」(TBS)などがある。大河ドラマは2007年の「風林火山」、2019年の「いだてん〜東京オリムピック噺ばなし〜」に続き3回目の出演。


木村皐誠(きむらこうせい)

2009年生まれの子役です。約束のネバーランドなんかに出演しています。


解説:実際の藤原道長

事績が多すぎるので、以下の記事を御覧ください。

気前よく、みんなにプレゼントをする人です。


ドラマ以前の時期の道長

康保二年(966年)

藤原兼家の五男として生まれました。兼家と時姫の間の子では三男です。なので、ドラマでは「三郎」と呼ばれるわけです。


1~3回:まひろ初期(977~983年)ごろの道長

天元三年(980年)

正月、従五位下となります。

正月、時姫ママが亡くなります。道長約14歳のことです。


永観元年(983年)

正月、侍従となります。



4~11回:花山天皇期(984~986年)ごろの道長

永観二年(984年)

2月、右兵衛権佐となります。


寛和二年(986年)

6月、円融天皇から花山天皇に代わり、兼家パパが摂政になります。

6月、昇殿を許されます。

7月23日、蔵人、従五位上となります。

8月15日、少納言となります。

10月15日、左少将となります。

11月18日、従四位下となり、禁色を許されます。



12回:「思いの果て」(987~989年)ごろの道長

永延元年(987年)

9月、非参議従三位となります。

12月、倫子ちゃんと結婚します。


永延二年(988年)

正月、権中納言となります。

この年、呪術デレ明子ちゃんと結婚します。ドラマでは、まだ明子ちゃんはデレてません。


13回「進むべき道」・14回「星落ちてなお」(990年)ごろの道長

正暦元年(990年)

正月、正三位となります。

5月、道隆兄さんが摂政となります。

7月、兼家パパが亡くなります。道長約24歳にして両親を失いました。

10月、姪の定子が中宮になったとき、道長は中宮大夫となります。


正暦二年(991年)

9月、権大納言となります。

この年、詮子姉さんが女院(東三条院)となります。


正暦三年(992年)

正月、頼通が生まれます(母倫子)。

この年、頼宗が生まれます(母明子)。


15回「おごれる者たち」(993年)ごろの道長

目立つ事項がありません。



16~18回「岐路」(994~995年)ごろの道長

正暦五年(994年)

3月、妍子が生まれます(母倫子)。

この年、顕信が生まれます(母明子)。


長徳元年(995年)

4月10、道隆兄さんが亡くなります。

5月8、関白となった道兼兄さんも死にます。

5月11日、内覧の宣旨を受けます。

6月19日、右大臣・氏長者となります。

7月24日、伊周と道長が激しく口論します。

7月27日、隆家の従者と道長の従者が、闘乱におよびます。

8月2日、隆家の従者が、道長の随身を殺害します。

8月3日、隆家が朝廷出禁となります。



19~21回:長徳の変(996年)ごろの道長

長徳二年(996年)

正月、長徳の変が起きます。5月までに伊周と隆家が失脚して、定子も出家します。

6月、教通が生まれます(母倫子)。

7月20日、左大臣正二位となります。

この年、能信が生まれます(母明子)。



22~26回:長徳年間(997・998年)ごろの道長

長徳三年(997年)

冬、病を理由に出家しようとします。なんか、思いとどまります。とにかく、道長はことあるごとに引退したり、出家したりしたがる人です。


長徳四年(998年)

3月、病を理由に辞表を叩きつけますが、弾き返されます。



ドラマではオミットされましたが、6月14日に内裏が焼亡します。このとき、道長は馬に乗って駆けつけて、陣頭指揮を執りました。


8月9日、中宮定子が、お産が近づいてきたということで、一条院から平生昌(なりまさ)の宅に移りました。定子ちゃんの引っ越しを手伝って」という一条天皇の頼みは、全ての公卿に無視されました。

道長は、あてつけに同じ日に宇治に遊びに行きましたが、ついて来たのは道綱斉信だけでした。公卿たちはどっちにつけばいいか分からず、静観を決め込んでいたようです。


9月には怪異(いやがらせ事件)が頻発しました。

9月3日には、馬場殿の下に犬の死骸が置かれ、

6日には、右杖座に犬のクソが置かれ、

8日には、道長のオフィス(宿所)の下に子どもの死体が置かれました。

こうしたことがあると穢となり、政務が滞ります。


9月25日ぐらいから、道長たちが彰子の入内の準備を始めたことが『御堂関白記』から分かります。

ドラマでは、夏ぐらいから「彰子ちゃん、港区女子化大作戦♡」をしていました。ドラマでは、赤染衛門の能力が閨房に全振りされていたり、彰子ちゃんが興味津々だったりと、二人の意外な側面が設定されました。


10月21日、道長は、彰子が入内するときに持ち込む屏風に貼る和歌を贈ってくれるよう、みんなに依頼(恫喝)しました。

入内する娘の屏風に公卿が和歌を贈ることすら、前代未聞の傲慢な行為なのに、さらに花山法皇までもが和歌を贈っているような状況に実資は、「そんな話はこれまで聞いたこともない」と憤慨しています。


なお、ロバート実資だけは道長の恫喝を拒否っていて、ロバート実資に近い家系の公任も歌を贈ったことも批判しています。まあ、立場と力関係的に、公任は断れないですよねえ。


10月30日、公卿たちや花山法皇が献上した和歌を、後に三蹟と称される書の達人・行成が清書しました。

このとき、道長は重ねてロバート実資に和歌を求めましたが、ロバート実資はまたも拒否しました。

ちなみに、彰子ちゃんが女御になった後、道長は厭味ったらしくロバート実資に、ロバート実資の歌だけが書かれていない屏風がある部屋に、ロバート実資を呼び込みます。

ドラマでは、彰子が入内する前に、ロバート実資が道長とともに屏風を見ましたね。


彰子の入内の日は11月1日に決定しました。

ドラマだと、定子の産み月に入内をぶつけてやれと、道長がたくらんでいました。


11月1日、彰子に内輦車宣旨が下されました。輦車というのは、牛車と違って人が引く車です。

内裏は6月の火事で焼け落ちているので、入内先は一条天皇が住んでいる里内裏の一条院です。下の図で、詮子姉さんが住んでいた一条院に、一条天皇たちは移っていました。



7日、女御宣旨が下されて、彰子は女御となりました。

定子のページで詳しく書いていますが、この日は引責出家したはずの中宮定子が男子、すなわち敦康親王を産んでいます。

諸卿は、中宮定子をスルーして、女御彰子のことにお祝いの挨拶にきました。

ドラマでは、彰子ちゃんと顔合わせをしたときの一条天皇は、ほんとにイヤなヤツでした。

「そなたのような幼き姫、、、」とか

「楽しく暮らしてくれれば、朕も嬉しい」とか

お前の相手をする気はない、的な気持ちを隠そうともしなかったです。これには、公卿たちも道長も、凍りついていました。


12月、道長と詮子は、今年の2月に裳着したばかりで、さっき女御になった彰子ちゃんを、もう中宮にしようと画策し始めました。

ドラマでは、安倍晴明が提案していました。

12月には、威子が生まれています(母倫子)。



28回「一帝一后」(999~1000年)ごろの道長

2月25日、娘の彰子を中宮にします。

長保二年(1000年)4月27日、病気となります。ドラマでもぶっ倒れていました。

病気がきついので、道長は行成に田鶴(頼通)の後見を頼みます。さらに、道長はその夜に一条天皇に辞表を叩きつけます。

病気は治らず、道長は怨霊の仕業かとおののきます。結局道長は計三回辞表を提出します。

5月25日、道長は行成に「オレの病気が治るように、伊周を赦免するように一条天皇に頼んでくれ」と命じます。ドラマでの、詮子姉さんのセリフとの違いがおもしろいですね。

辞表は一条天皇にスルーされ、道長は行成にキレ散らかします。

6月27日、道長の病気が治ります。二ヶ月もぶっ倒れてなんなら、そりゃドラマのようにいろいろとウワサが飛びかおうて。


道長にとっては嬉しいことに、ライバル筋の定子が12月16日に亡くなります。

このとき、道長は一条天皇に内裏に呼ばれるのですが、詮子姉さんが重病だからとテキトーな言い訳をしてスルーします。行成が日記『権記』で「詮子さん、たいした病状じゃなかったぜ」ってバラしてます。



29回「母として」(1001年)ごろの道長

道長も詮子姉さんも、このころにはかなり病気がちです。


長保三年(1001年)正月10日に、妻倫子の母である穆子の70歳祝(七十算賀法事)をハデに開催します。その裏では、同じ日に定子の三七日法事も寂しく行われています。


8月から彰子に敦康親王を養育させ、道長はその後見をします。

幼い彰子には当面子どもは望めないという情況で、道長が親王カードを天皇との関係を保つための保険として手元にキープしておくためです。政治の世界はかくも冷徹なものなんですね。

ドラマでは、「人質」とまで言い切りました。詮子姉さんの発案でした。


(以下の一件は、ドラマの演出と原作(史実)の違いがかなりおもしろいので、下の動画か、ブログ「田鶴のトラウマ・厳君のトラウマ (史実で楽しむ 光る君へ解説・考察 ep 30(第29回)「母として」)」でぜひ詳しくチェックしてみてください)

10月7日、2日後の童舞のリハで嬉しいことがあって、文字通り“飛び跳ねて小躍りして”喜びました。

10月9日、詮子姉さんの40歳の賀を行います。このときの童舞では、道長の長男で倫子の子の約9歳の田鶴の舞よりも、道長の次男で明子の子の約8歳の巌君の舞のほうが圧倒的にエクセレントでした。

そこで、一条天皇も公卿たちも遠慮なく巌君を褒め称えました。実際の道長は倫子の子を露骨に優遇する人だったので、バチギレして席を起って自分のオフィスに引きこもるメンヘラ仕草をかまします。


閏12月にはいると、詮子姉さんの病状(腫物)が悪化します。

ドラマでは、詮子姉さんが伊周の復位を望みます。

翌7日、詮子姉さんは三条第(行成)邸に移り、22日に崩御します。



30回「つながる言の葉」((1002~)1004年)ごろの道長

長保四年(1002年)

娘の彰子がまだ一条天皇に相手にされないので、保険でキープしている(ドラマだと「人質」として手元においている)敦康親王をがんばって後見します。


長保五年(1003年)

昨年と同様です。


2月20日、枇杷第で、長男頼通(約11歳)の元服と、妍子(約10歳)の着裳を行います。


長保六年/寛弘元年(1004年)

2月6日に頼通が春日祭の仕事をするのを、助けまくります。

2月7日、妹の綏子が死にます。疎遠ではありましたが。


6月7日から頭痛に悩まされます。


この年は炎旱で雨が降りません。

7月に一条天皇が雨乞いして、安倍晴明も本気雨乞いをしましたが、また降らなくなったので改元しましたが、また降らないので、9月7日に、道長が禊をします。



31回「月の下で」(1004年後半)ごろの道長

10月14日、一条天皇を松尾神社行幸に連れ出します。

10月21日、一条天皇を平野・北野両社行幸に連れ出します。


11月、次女妍子を従三位尚侍として、東宮居貞親王(三条天皇)と結婚させるための布石を打ちます。

12月、石山寺に詣でて、長女彰子が皇子を産むことを祈願します。



32回「誰がために書く」(1005年)ごろの道長

寛弘二年(1005年)

2月10日、東三条殿のリノベーションが完成します。東三条殿は幼い頃の道長が父兼家たちと暮らしたところです。

3月8日、彰子の大原野神社行啓に、倫子とともに付き添います。帰りはロバート実資といっしょの牛車に乗りました。

8月20日、末息子の長家が生まれます(母明子)。

祖先が葬られている木幡に浄妙寺三昧堂を建立します。

11月15日、寝ていたら内裏が火事になったという報告を受けたので、内裏に駆けつけます。

このとき、一条天皇と彰子が飛香舎から脱出してきたので、避難誘導します。

神鏡が焼損したため、道長はひどく歎きます。

11月、道長の四十歳祝が行われます。、、、オマエ、詮子姉さんの四十歳祝をだいなしにしたこと、覚えてるんだろな?



33回「式部誕生」(1006年前半)ごろの道長

寛弘三年(1006年)

3月4日、東三条殿で華宴を開きます。




34回「目覚め」(1006年後半~1007年前半)ごろの道長

→おもしろいので、詳しくはこちらの記事を御覧ください。

10月、法性寺五大堂の大仏開眼が行われます。

11月26日、辞表を叩きつけますが、ソッコー叩き返されます。このころ、体調が悪かったようです。




35回「中宮の涙」(1007年後半)ごろの道長

寛弘四年(1007年)

正月、嬉子が生まれます(母倫子)。

3月3日、土御門殿で曲水の宴を開きます。

こちらにかなり詳しく書きました。

12月1日、浄妙寺多宝塔供養を行います。



36回「待ち望まれた日」(1008年)ごろの道長

寛弘五年(1008年)

彰子の懐妊を一条天皇から知らされます(前年の12月かも)。

妍子に『源氏物語』の原本をプレゼントします。

9月19日、敦成親王におしっこをかけられます。

10月16日、一条天皇が土御門殿に行幸してきたときに、船楽を開きます。



37回「波紋」(1008年後半)ごろの道長

寛弘五年(1008年)

ドラマでもありましたが、彰子が『源氏物語』を製本しているので、紙や筆、硯などをプレゼントします。

12月、敦成親王の百日祝のときに、伊周からイヤミを言われます。




38回「まぶしき闇」(1009年前半)ごろの道長

寛弘六年(1009年)

正月30日、呪詛事件の始まりです。月~火曜日に更新します。

ドラマでは、伊周の処罰を一等減じたのは道長でした。


夏頃(ドラマでは6月)、頼通隆姫女王と結婚します。結婚の様子はとても華やかで当世風。薫香もすばらしかったと『栄花物語』は語ります。

この縁談が持ち上がったときの道長の感想は、「男子の価値は妻次第で決まる。高貴な家に婿取られるべきなのだ」というものでした。実際、道長は結婚当時は明らかに格上の源倫子源明子と結婚しています。また、道長が「倫子ちゃんと結婚してよかった~」と思ってたこともわかります。まあ、出典は『栄花物語』ではあるのですが。。。

なお、『紫式部日記』からは、この縁談のときに道長が紫式部に相談をもちかけたようです。

ドラマでは、「結婚は好き嫌いじゃない。家柄と出世のためにするのだ」と、倫子ちゃんの前で言いやがりました。おいおいおい。倫子ちゃん、内心そーとー怒っとるぞ。



【その後の道長】

寛弘六年(1009年)

11月25日、彰子が敦良親王(後朱雀天皇)を生みます。


寛弘七年(1010年)

2月20日、妍子が東宮居貞親王(三条天皇)に入内します。

7月17日、敦康親王が元服するときの加冠役をします。

8月8日、一条天皇に国史を編修することについて奏聞します。

8月29日、書籍2000巻を収めます。


寛弘八年(1011年)

正月、金峯山詣のために写経などを始めますが、穢とかがあったので止めます。

3月27日、土御門殿で、等身大の阿弥陀仏を供養します。

5月25日、一条天皇の体調がいよいよヤバいということで、大江匡衡に易筮させます。

5月26日、譲位を提案します。

6月13日、一条天皇が譲位します。

7月9日、「一条天皇は円融陵らへんに土葬しようぜ」って、行成に語ります。

7月17日、道長の宿所で、源俊賢たちが一条天皇をディスります。

7月20日、「一条天皇は円成寺に納骨して、三年たったら円融陵らへんに移そうぜ」って決めます。

7月22日、一条天皇の尊号や院号について話し合います。

8月11日、三条天皇が、道長の東三条殿から新築の内裏に遷ります。

8月23日、関白(三条天皇)への就任を断って、内覧の宣旨を受けます。

8月23日、妍子(と娍子)に女御の宣旨が下ります。


長和元年(1012年)

正月、顕信が比叡山に凸って出家します。

2月14日、妍子が三条天皇の中宮となります。

4月27日、妍子のライバルの藤原娍子が皇后になりやがります。

そこで道長ファミリーは、一家をあげて、いやがらせします

まず、同じ日に妍子が内裏の飛香舎に参入します。

空気を読んだ公卿たちは、娍子の立后の儀式には参加しません。三条天皇が参加するように命じても参加せず、笑っています。いやなヤツらですね。さらには、天皇からの使者に石を投げるヤツまでいます。マジか、こいつら。

道長は道長で、娍子立后の宣命から大事な文言を消して、皇后を象徴する調度品を娍子のもとに運ばせませんでした。徹底したいやがらせですね。

一応、学界の研究動向も踏まえたうえでフォローしておくと、三条天皇の娍子立后も相当強引で、当時の貴族社会の慣習を無視したものでした。まあ、私が大キライな「いじめられる側が悪い論理」に聞こえなくもないのですが。。。



長和二年(1013年)

7月6日、妍子が禎子内親王を生みます。


長和三年(1014年)

2月9日、内裏が火事になったので、造営のことを指示します。


長和四年(1015年)

10月15日、三条天皇が、娘の禎子内親王頼通の縁談を道長にもちかけます。頼通の正妻の隆姫女王には子がいないので、当時としてはアリな縁談です(え~、まだ20歳やん。チャンスあるやん)。

ただ、頼通が皇女と結婚すると隆姫は次妻待遇になるらしく、隆姫の母尼は悲しんで食べ物ものどを通らないありさまです。

頼通は隆姫を愛しているので、この縁談がいやで涙ぐみますが、道長は「男子は妻一人だけをもつということはないだろ。愚かしいぞ。今まで子に恵まれていないから、とにかく子を作ることだけ考えろ。禎子内親王はきっと子を生んでくださるさ。」と、令和のコンプラ100%アウトなことを言って、頼通をしかります。

頼通は悩みからか発熱して重体におちいります。道長と倫子が頼通を看病していると、伊周の霊か具平親王の霊が現れます。伊周しつこいなあ。

なんやかんやで縁談は破談となり、頼通はあっさりと回復します。

10月25日、彰子に五十賀を祝ってもらいます。

10月27日、摂政に准じて除目や、官奏を行います。三条天皇の眼病が重いためです。


長和五年(1016年)

正月29日、三条天皇が譲位して、後一条天皇が践祚します。これにともない、道長は摂政となります。

12月7日、左大臣を辞めます。


寛仁元年(1017年)

2月、父母と詮子姉さんの墓と浄妙寺に詣でます。

3月11日、家司の保昌が頼親に殺害されます。

3月16日、摂政を辞して、頼通に継がせます。

12月4日、太政大臣従一位となります。


寛仁二年(1018年)

正月3日、後一条天皇の元服の加冠役をつとめます。

正月7日、彰子が太皇太后となります。

2月9日、太政大臣を辞めます。

3月7日、威子が後一条天皇に入内します。4月には女御となります。

6月27日、新造の土御門殿に移ります。

10月16日、妍子が皇太后となり、威子が中宮となることによって、一家三后を達します。この夜、望月の歌を詠います。

10月21(22?)日、道長倫子彰子妍子、威子が一堂に介します。妍子が彰子姉さんに会ったのは5年半ぶりです。

12月、法華八講を開きますが、妍子が「雨なので、明日行くわ」と欠席します。メッセンジャーは皇后宮大夫の道綱です。道長パパは激怒して、大雨の中、妍子の御所まで迎えに行きます。ロバート実資は日記に「わら。ダセー。」と書いています。



寛仁三年(1019年)

3月21日、出家します。法名は「行観」です。後に、「行覚」に変えます。

4月、刀伊の入寇が起きます。

9月29日、東大寺で授戒して、興福寺と春日社を参詣します。


寛仁四年(1020年)

3月22日、無量寿院(後の法成寺)落慶供養を行います。

12月14日、延暦寺で廻心菩薩戒を受けます。


治安元年(1021年)

2月、倫子が無量寿院で授戒します。

12月3日、無量寿院西北院の供養を行います。


治安二年(1022年)

7月14日、法成寺金堂供養を行います。


治安三年(1023年)

4月10日、法成寺万燈会を行います。

5月28日、法成寺阿弥陀堂で逆修の法事を行います。

10月17日、高野山を参詣します。


万寿元年(1024年)

6月26日、法成寺薬師堂供養を行います。


万寿二年(1025年)

正月8日、法成寺で修正会を行います。

8月5日、嬉子が親仁親王を産むも、2日後に死去します。


万寿三年(1026年)

正月19日、彰子が出家して、上東門院となります。

3月20日、法成寺西堂落慶供養を行います。

4月、法成寺で逆修を行います。


万寿四年(1027年)

9月21日、妍子が死去します。

12月4日、道長が死去します。鳥辺野に葬送され、遺骨は木幡に移されます。



年表

では、藤原道長の略年表を示します。年齢は数え年です。


966年:1歳。藤原兼家(38歳)と時姫(?歳)の五男。

980年:15歳。従五位下。母時姫死去。

987年:22歳。非参議従三位となる。源倫子と結婚。

988年:23歳。源明子と結婚。

      倫子彰子を出産。

989年:24歳。正月14日、泥酔して御斎会論議に遅れ、一条天皇の御前でうるさく騒いで金家に怒られる。

      6月24日、お姉ちゃん詮子が危篤。雲林院に定覚を呼びに行く使者となる。

991年:26歳。権大納言となる。姉詮子が出家して東三条院に。

992年:27歳。倫子頼通を出産。

995年:30歳。兄の道隆(43歳)が関白を辞し出家したため、内覧となる。その後、右大臣、氏長者となり、翌年には左大臣に進む。

996年:31歳。伊周隆家を左遷。

998年:33歳。病→上表。

999年:34歳。娘の彰子(12歳)を一条天皇(20歳)に入内させる。

1000年:35歳。彰子を中宮とする。12月、定子媄子内親王を出産するも、翌日死去。

1001年:36歳。姉詮子死去(40歳)。

1007年:42歳。金峯山詣。経筒を埋納。

1008年:43歳。彰子(21歳)「が敦成親王(後一条天皇)を産み、外戚としての地位を固める。

1009年:44歳。彰子(22歳)が敦良親王(後朱雀天皇)を出産。

1011年:46歳。敦成親王立太子。

1012年:47歳。妍子(けんし/きよこ・19歳)を三条天皇(37歳)の中宮とする。

1015年:50歳。准摂政(三条天皇)。

1016年:51歳。三条譲位→後一条(敦成親王)即位→摂政。准三宮。

1017年:52歳。摂政を頼通(26歳)に譲る。後一条天皇の元服の儀のために太政大臣となり、元服の儀の後に辞任。

       敦良親王立太子。敦明親王(定子の子)は東宮を辞退。

1018年:53歳。威子(20歳)を後一条天皇(11歳)の中宮とし、「一家立三后、未曾有」と評され、望月の歌を詠う(小右記)。

1019年:54歳。出家。

1022年:57歳。法成寺金堂落慶。

1023年:58歳。高野山詣。

1025年:60歳。寛子・嬉子、死去。

1026年:61歳。彰子(39歳)が出家して上東門院に。

1027年:62歳。顕信・妍子、死去。

       死去。木幡に埋葬。



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