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藤原道綱 「光る君へ」人物事典036

更新日:2024年10月8日


【目次】


藤原道綱(ふじわらのみちつな):上地雄輔

まずは、NHK公式の紹介を引用して、大河ドラマ上での設定を確認しておきましょう。


道長の異腹の兄。知性豊かな母を持つが、本人は一向に才に恵まれず、父の兼家からは、嫡妻の息子たちより格段に軽く扱われている。性格は明るくお人よしで、憎めないところもある。


第5話で初登場しました。このとき(984年)30歳で、道長よりも11歳年上です。宣孝(33歳)や赤染衛門(30前後)と同世代といったところでしょうか。

官位は、このとき従五位上で左近衛少将です。備前介も兼任していますが、遙任でしょう。

道長と同い年の藤原公任は、19歳で従四位上の左近衛中将なので、道綱は公任の部下ということになります。

道綱を見るときの兼家は、政治家の顔をしていませんでした。寧子の家にいるときだけが、兼家の安らぐときなのでしょうか。

エピソード12では、くるくるお菓子をはむはむしていました。これからは、兼家だけでなく、道長も癒やしてくれることを期待しています(追記(2024/03/18)→道綱と道長の隠された関係)。



キャスト:上地雄輔(かみじゆうすけ)

1979年生まれの日本の俳優、歌手、タレント、司会者です。大河ドラマでは、「天地人」で小早川秀秋を演じています。




解説:実際の藤原道綱

藤原道綱は、頼りがいも能力もないマザコン男です。藤原実資からもボロクソに言われています。

藤原兼家の次男で、母は藤原倫寧の娘(『蜻蛉日記』の作者)です。母親は「光る君へ」では寧子という名前で、一般にいう「藤原道綱母」ですね。

いろいろなところで、出来が悪いと言われています。私も大学院などで『小右記』を読みましたが、道綱はほんとうにぽやっとしています。お母さんの寧子(『蜻蛉日記』の作者)がずっと心配しているのもうなずけます。

道長のゴリ押しで997年に大納言になれたときは、官位が抜かれたロバート実資がバチギレして、日記『小右記』に道長詮子への不満をぶちまけています。

1000年の4月に中宮彰子の立后後初入内のときには、先例に反するのに「彰子の伯父にあたるオレも昇進させてー」とゴリ押しして、嫌がる一条天皇から従二位をもぎ取ります。


道綱の娘は豊子(ほうし)で、紫式部日記に「宰相の君」として登場します。紫式部から容姿をほめられています(『紫式部日記』49段)。豊子は敦成親王の乳母でもあったので、敦成親王が即位して後一条天皇となると、典侍・従三位に昇進しています。

そういえば、豊子はまひろの同僚なので、道綱よりも豊子のほうがドラマに出てくるようになるかもしれません。


正暦四年(993年)

2月6日、道兼が牛車で家に凸ってきて、牛車に同乗させられて、先に同じ目にあったロバート実資と三人で、道兼別邸の粟田山荘に出かけるはめになります。


道綱と道長の隠された関係(うさぎ先生の追記(2024/03/18))

Xのタイムラインなんかでも、道綱の癒やしキャラが盛り上がってるうさ

道綱は道長の母違いの兄弟うさ

史実でも道長の母違いの兄弟は何人かいるけど、他の兄弟とくらべて、道長は明らかに道綱と仲が良かったうさ

たとえば、よく同じ牛車に一緒に乗って「まったり まったり まったりな~♪」と出かけていたうさ


大河ドラマでは、二人が仲が良い理由を

「親兄弟も信じられない」と言っていた道長にとって

ぼんやりとして出世に興味がない道綱といるときだけが心休まるときになる

とするシナリオに感じるうさ 今のところ

道長も道綱にくるくるお菓子をもらって はむはむするかもうさ


さあ、ここからうさよ

実は! 道長と道綱にはドラマでは隠された関係がある(できる)うさ

それは、「相婿(あいむこ)」という関係うさ

相婿とは、姉妹と結婚した二人という関係うさ

道長はこの後、左大臣源雅信の娘 倫子と結婚するけど

実は、道綱も左大臣源雅信の娘と結婚しているうさ

こうして、道長と道綱は相婿の関係になるうさ

ちなみに、倫子と道綱の北の方のどちらが年上なのかは、史料がないので分からないうさ

(2024/05/19追記:栄花物語によると倫子が姉でした)

また、道長と道綱どちらが先に結婚したのかも分かっていないうさ

いちおう、道綱のほうが道長より11歳年上だし 道長と倫子は当時としては晩婚なので

道綱のほうが先に結婚していたのかなあ、、、と推察してみるうさ

(2024/05/19追記:栄花物語によると道綱が後でした


そうなると、今週のドラマで道綱がくるくるお菓子をはむはむしていたときは

もう左大臣家の娘と結婚していたということうさ(2024/05/19追記:栄花物語によると道綱が後でした


おい!道綱 パパの肩揉もうとしてママに怒られてる暇があったら 奥さんのとこ行って道長みたいにラブラブちゅっちゅしてこんかい!


さて、大河ドラマでは、道長が左大臣家の源倫子と結婚することによって、右大臣家(兼家の家系)が源氏と繋がるというシナリオのようなので

道綱がすでに源雅信の娘と結婚していたという話はオミットされると思ううさ


史実では、道長にとって相婿の関係にあるのは道綱だけうさ

道綱から見たら、道隆や道兼は相婿ではなく、道長だけうさ

こうして、二人は他の兄弟とは少し違う近しい関係にあったと考えられているうさ

たとえば、後々道綱息子の一人、兼経は、道長の養子になっているうさ


ちなみに、翌年の987年4月17日に、道綱と道長は、藤原為光との間にある事件を起こす(起こされる)うさ

藤原為光は、今週の除目のときに、ニヤっとしていた人うさ

『源氏物語』の元ネタになった可能性もある出来事なので、ドラマでも描かれるかもしれないうさ

楽しみにしているうさけど、、、「光る君へ」は好き好きちゅっちゅ以外のエピソードは削りまくっているので、どうかなあとは思っているうさ

余力があったら、今度は藤原為光の解説を今週中に上げたいうさ


最後に、道綱奥さんズを何人か紹介しておくうさ

まず、今回紹介した左大臣家源雅信の娘は、道綱が40歳と少しのころに亡くなるうさ

他には、源頼光の娘も妻にしているうさ

源頼光は武士として大江山の酒呑童子を退治したという伝説をもつ頼光うさ

あと、源近広の娘も道綱の子を産んでいるうさ その子は後に歌人道命阿闍梨として有名になるうさ



1000年の4月に中宮彰子が立后初めて入内するときに、先例に反するのに「彰子の伯父にあたるオレも昇進させてー」とゴリ押しして、嫌がる一条天皇から従二位をもぎ取りました。




長保六年/寛弘元年(1004年)

10月10日、道長といっしょに、内裏での羹次(あつものついで・野菜や魚肉を煮た料理でパーティー)に奉仕します。


寛弘二年(1005年)約50歳

2月25日、道綱は大納言なのですが、復権する伊周の席次が、大臣の下で大納言の上と決まります。大臣の席を狙っていた道綱にとっては、出世の順番が一つ繰り下がることを意味します。

7月28日、相撲召合で伊周が形式通り道綱上座に座りやがったので、道綱はボイコットしました。


寛弘三年(1006年)約51歳

正月16日、踏歌節会に伊周が参加するというので、仮病を使ってサボります。なお、大納言は全員参加しませんでした。

7月3日、神鏡定めに参加します。


弘四年(1007年)約歳

正月27日、道綱が居貞親王(三条天皇)の東宮傅(名誉職的な側近。じいやみたいなポジション)となります。懐平が東宮大夫で、頼通(約15歳)が東宮権大夫です。

3月14日、やっぱり東宮坊を管轄させられます。名誉職じゃなくて、実際にまた仕事をさせることを意味します。

3月24日、道綱邸(大炊御門第)が火事で燃え尽きます。


寛弘四年(1007年)~五年

この間、敦道親王を亡くしたあかねに歌を贈っています。デリカシーがない道綱らしい歌です。道綱も、あわよくば的にあかね(和泉式部)を狙っていたみたいです。


その後の道綱

寛仁二年(1018年)

10月16日、道長が望月の歌を詠います。

12月、道長が法華八講を開きますが、妍子が「雨なので、明日行くわ」と欠席します。メッセンジャーは皇后宮大夫の道綱です。道長パパは激怒して、大雨の中、妍子の御所まで迎えに行きます。ロバート実資は日記に「わら。ダセー。」と書いています。


年表

藤原道綱の略年表を示します。年齢は数え年です。


955年:1歳。誕生。

970年:16歳。叙爵。

→左衛門佐・蔵人・右中将など

987年:33歳。従三位。

991年:37歳。参議。

996年:42歳。中納言兼右大将。

997年:43歳。大納言。

1000年:46歳。4月、従二位。

1020年:66歳。10月13日、病のため出家。

       10月15日、死去。



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