【目次】
36回「待ち望まれた日」(1008年)ごろのききょう
その後の清少納言
ききょう(清少納言):ファーストサマーウイカ
まずは、NHK公式の紹介を引用して、大河ドラマ上での設定を確認しておきましょう。
歌人・清原元輔の娘。才気煥発。一条天皇に入内した定子のもとに女房として出仕し、心からの忠誠を尽くす。『枕草子』は紫式部や道長にも影響を与えることに。
ドラマでは、伊周を見る目が、、、と思ったら。。。
まあ、なにはともあれ、ドラマのききょうといったら、これでしょう!
1990年生まれのタレント、女優、歌手、元アイドルです。
大河ドラマは初出演です。
解説:実際の清少納言
清少納言の「清」は清原氏の略称です。受領階層の中下級官人である、父清原元輔は『後撰和歌集』の編纂者の一人で、梨壺の五人と称される有力歌人です。
我々のイメージでは清少納言は随筆家ですが、中古歌仙三十六人の中にも入っています。
定子が崩御したあとの清少納言について、『国史大辞典』によると「明瞭ではないが、しかし、いずれにせよ則光との離別の後に摂津守藤原棟世と再婚し、上東門院に奉仕した小馬命婦を儲けているので、受領の北の方としての立場は保持して過ごした。死没年時までにはまだ二十数年間あるが、確実な史料はなく具体的な動静は判明しない。……説話の中の彼女は、流浪・落魄の主人公であり、そのままには受け取れないが、宮仕え時のごとくかがやかしいものでなかったこともまた事実であろう」とのことです。
ききょうは藤原行成と仲が良いです。
こんな話が知られています。
「餅餤」の話
『史記』孟嘗君伝の誇示を踏まえた会話
「夜をこめて」の歌の贈答
『晋書』王徽之伝を踏まえた会話
そして、行成はききょうが忠誠を尽くしている定子のライバルである、彰子やその女房であるまひろとも近しいです。というより、政治的には、道長・彰子側についています。
ドラマ登場以前の清少納言
康保二年(965年)
のちに夫となる、橘則光が生まれます。
康保三年(966年)
このころに清少納言が生まれたと考えられます。紫式部より5歳ぐらいお姉さんです。あと、このとき、父親の清原元輔は約58歳です。
天延二年(974年)
父の清原元輔に従って、周防国に下ったとみられています。
1~3回:まひろ初期(977~983年)ごろの清少納言
天元元年(978年)
父とともに帰京したと考えられます。ききょうなだけに!
天元四年(981年)
約15歳のころ、橘則光と結婚したと推測されます。
天元五年(982年)
子の則長を生みます。ドラマでは、則長くんは。。。
4~11回:花山天皇期(984~986年)ごろの清少納言
寛和二年(986年)
白河での法華八講で、中納言義懐と応待します。
13回「進むべき道」・14回「星落ちてなお」(990年)ごろの清少納言
正暦元年(990年)
3月、宣孝の金峯山詣での評判を聞き、あとあと『枕草子』でディスるくらい覚えています。
6月、父の元輔が肥後国で亡くなります。
正暦二年(991年)
このころ、橘則光と離婚します。ドラマでは、則長くんが。。。
15回「おごれる者たち」(993年)ごろの清少納言
正暦四年(993年)
春もしくは秋ごろに、中宮定子に仕え始めます。
16~18回「岐路」(994~995年)ごろの清少納言
正暦五年(994年)
2月、定子の積善寺供養に列席します。このときの様子は『枕草子』第259段に詳しく書かれています。それは、牛車に乗るときのあれこれエピソードですが、清少納言は貴公子の伊周と隆家が近くにいたのでドギマギしています。
春、清涼殿弘徽殿上局に出仕します。
長徳元年(995年)
3月、斉信から「草の庵」というあだ名を付けられる。
4月、関白道隆が死去します。
5月、道長が内覧宣旨を受けます。
19~21回:長徳の変(996年)ごろの清少納言
長徳二年(996年)
4月、中宮定子が宮中を退出して、伊周邸での出来事にショックを受けて、早まって落飾します。
12月、中宮定子が脩子内親王を生みます。
22~26回:長徳年間(997・998年)ごろの清少納言
長徳三年(997年)
6月、中宮定子が職御曹司に入ります。
長徳四年(998年)
5月、郭公を聞きに賀茂の奥に出かけます。
12月、職御曹司に雪山を作ります。ドラマでは、
27回「宿縁の命」(999年)ごろの清少納言
清少納言は、「平生昌の宅は、定子様のような高貴なる御方には粗末すぎる」と言って、門が小さくて牛車が入れない、定子様が歩いて門をくぐるはめになったなどと、いろいろと不満をぶちまけています(『枕草子』第六段)。
11月、中宮定子が敦康親王を生みます。
28回「一帝二后」(1000年)ごろの清少納言
長保二年(1000年)
12月、皇后定子が媄子内親王を生み、崩御します。
ドラマでは、伊周をアレな目で見ていたききょうですが、、、翌週の展開に注目です。
29回「母として」(1001年)ごろの清少納言
長保三年(1001年)
このころ、清少納言は宮廷を去ったと考えられています。
『枕草子』もこのころに成立します。
この後の清少納言については不明というほかありません。年表も参考にしてください。
ドラマでの活躍に期待です。
36回「待ち望まれた日」(1008年)ごろのききょう
ドラマでは、脩子内親王に仕えているという設定でした。
媄子内親王が亡くなった話を伊周としていましたね。原作(史実)では、媄子内親王の病気平癒祈願をすることを道長が嫌がるということもあったのです。
年表
では、清少納言の略年表を示します。生没年不詳です(年表の年齢は推定の数え年です)。
966年ごろ?:1歳。誕生。
983年ごろ?:18歳?。橘則光と結婚。→則長らを生む。
?年:?歳。橘則光と離別。
?年:?歳。摂津守藤原棟世と再婚。
992年:27歳?。定子のもとに出仕。
995年:30歳?。定子を後見してきた藤原道隆(定子の父)が死去。
1000年:35歳?。12月、定子、崩御。
定子の崩御後、夫棟世の任国摂津国に下ったと考えられる(→小馬命婦を生む)。(『清少納言と紫式部』)
1002年:37歳。帰京したか。
1017年:52歳?。兄弟の致信が殺害される。このとき、清少納言は同宿していた(ただし、『古事談』による。『古事談』は鎌倉時代の説話集)。
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