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藤原行成 「光る君へ」人物事典019

更新日:8月26日

【目次】

藤原行成(ふじわらのゆきなり)

まずは、NHK公式の紹介を引用して、大河ドラマ上での設定を確認しておきましょう。



道長よりも6歳下。道長政権下で蔵人頭に抜擢されると、細やかな気遣いで実務に能力を発揮、欠かせない存在として支え続ける。文字の美しさでは右に出る者がおらず、もてはやされた。


行成は「アニメ声が大好きだ!」と自認している口元フェチな(『枕草子』)、書道家です。


ききょう(清少納言)のことがかなり好きで、「餅餤」のエピソード、中国の孟嘗君の漢詩をパロってギリギリラインまでききょうにからんだエピソード、「夜をこめて」の歌のやりとり、『晋書』王徽之パロのエピソードがあります(枕草子)。


能筆家としても有名で、三跡(藤原行成・藤原佐理・小野道風)の一人です。、、、てか、能筆家としてのほうが有名ですよね。和様の大成者ですし。

日記『権記』を書いており、実資の『小右記』、道長の『御堂関白記』、紫式部の『紫式部日記』、清少納言の『枕草子』とともに、ドラマの根本資料となっていると考えられます。


藤原道長からの信任も厚いです。娘の婿には、道長の子長家を迎えています。一条天皇には中宮定子がいるにもかかわらず、彰子を立后するために強引な理屈を持ち出した話がクライマックスでしょうか。


キャスト:渡辺大知(わたなべだいち)

1990年生まれのミュージシャン、俳優、映画監督です。ソニー・ミュージックアーティスツ所属です。

大河ドラマでは、『いだてん~東京オリムピック囃~』(森繁久役)、『青天を衝け』(徳川家定役)に出演しています。


ドラマが始まる以前の行成

天禄三年(972年)

行成が生まれます。ドラマ設定だと、まひろの2歳年下になります。

11月、祖父の伊尹が没します。


天延二年(974年)

9月、父の義孝も没します。


天延三年(975年)

4月、花山天皇の母である女御懐子が没します。


1~3回:まひろ初期(977~983年)ごろの行成

天元五年(982年)

2月25日、元服します。


4~11回:花山天皇期(984~986年)ごろの行成

永観二年(984年)

正月7日、従五位下となります(東宮師貞親王の給で、約12歳でこれです)。

8月、花山天皇が践祚して、叔父の義懐が蔵人頭となります。

12月、祖母の恵子女王が准三宮となります。


寛和元年(985年)

9月、義懐が参議となり、12月には中納言となります。

12月24日、侍従となります。


寛和二年(986年)

2月28日、昇殿を許されます。約14歳です。

6月、一条天皇が践祚します。叔父の義懐は花山天皇の譲位とともに失脚です。

8月13日、左兵衛権佐となります。


12回:「思いの果て」(987~989年)ごろの行成

永延元年(987年)

正月7日、従五位上となります(恵子女王の給によります)。

9月4日、昇殿を許されます。


永延二年(988年)

3月25日、兼家の六十歳賀に奉仕します。


永祚元年(989年)

2月28日、兼家の賀茂社詣でに舞人を奉仕します。

3月9日、円融院の東寺における両部伝法灌頂に供奉します。

6月、頼忠が没します。

8月11日、源泰清の娘と結婚します。


13回「進むべき道」・14回「星落ちてなお」(990年)ごろの行成

正暦元年(990年)

正月29日、備後権介を兼任します。

10月5日、太皇太后昌子内親王が本宮に帰ってくるときに供奉します。


正暦二年(991年)

正月7日、正五位下となります。

2月19日、円融院葬送の日に哀悼の和歌を詠みます。

9月7日、『権記』の記事が始まります。


正暦三年(992年)

5月21日、左兵衛府の荒手結(あらてつがい)に着きます。

9月、恵子女王が亡くなります。


15回「おごれる者たち」(993年)ごろの行成

正暦四年(993年)

正月9日、従四位下となります。左兵衛府権佐は解任です。

正月28日、道兼の大饗に所役を勤めます。

7月17日、なんか、源俊賢が行成の吉夢を見たと語ってきます。なんで、オマエが行成のハッピードリーム見とんねん。

9月19日、道兼の春日社詣でに従います。(~20日)


16~18回「岐路」(994~995年)ごろの行成

正暦五年(994年)

8月28日、伊周の内大臣新任の大饗に参加します。


長徳元年(995年)

正月、ママ(保光の娘)を亡くします。これで、約23歳で両親を失いました。

8月29日、蔵人頭となります。


19~21回:長徳の変(996年)ごろの行成

長徳三年(996年)約24歳

正月25日、民部権大輔となります。

4月24日、権左中弁となります。

8月5日、左中弁となります。


22~26回:長徳年間(997・998年)ごろの行成

長徳三年(997年)約25歳

正月28日、備前守を兼任します。

4月16日、賀茂祭で花山法皇の従者が濫行したため、行成は法皇の帰還を促します。

6月4日、詮子が病気になったので、勅使として広沢に赴きます。

6月8日、道長の病を奏上して、勅をうけたまわって見舞いに行きます。

7月19日、祈年穀奉幣の幣料が不足していたので、いろいろと処理します。

10月1日、大宰府が奄美に賊が侵入してきたという報告を上げてきます。

12月12日、道長邸の作文に参加します。


長徳四年(998年)約26歳

正月11日、従四位上となります。

3月14日、不動息災法を始めます(~28日)。

3月、道長の辞表を三度も一条天皇に申し上げます。許可はおりませんでした。

7月12日、病となり、15日に辞表を提出します。26日に却下されます。

8月16日、右大弁への承認を望み、道長に自推します。

9月1日、鴨川が洪水したので、いろいろと働きます。

10月18日、前年に生まれた息子を亡くします。

10月23日、右大弁となります。

10月29日、東三条院(詮子)別当となります。詮子は一条院に移ります。

11月3日、居候している橘道貞の宅で饗応をします。橘道貞は昌子内親王の別当で、あかねといっしょに自邸で昌子内親王に仕えています。

11月19日、道長の田鶴の童殿上の名簿を書きます。

12月3日、息子が生まれます。


27回「宿縁の命」(999年)ごろの行成

6月14日、一条天皇が住んでる内裏が火事で焼亡しました。

この件について、8月ごろ、赤染衛門のダンナ大江匡衡が、「内裏が焼けたのは、一条天皇定子がラブラブちゅっちゅしてっからじゃね?」と、行成に話しています。


9月7日、行成は辞表を提出しますが、却下されました。

実資は、「どうせパフォーマンスだろ」と、冷淡な評を書き残しています。


長保元年(999年)約27歳

正月20日、備後守を兼任します。

2月11日、勅使として彰子従三位の知らせを伝えます。

閏3月29日、大和権守を兼任します。

6月に内裏が焼亡したことにともなって一条天皇が一条院に遷ったので、7月1日、詮子を土御門殿に遷します。

7月14日、清涼殿年中行事障子を書くために、ロバート実資に本を借りようとします。

7月19日、三条宅の垣根をつくるために、藤原安隆宅に移ります。

7月27日、盛子内親王の法事のために、「地蔵菩薩銘」「法華経」外題を書きます。

7月29日、道長に命令されて、「法華経」とか願文とかを書きます。

8月9日、定子がいる平生昌邸に移ります。

8月14日、道長に命令されて、岩清水放生会の祭文を書きます。

9月7日、蔵人頭を辞めるという辞表を叩きつけます。翌日に却下されます。

9月12日、道長の嵯峨遊覧につきあわされます。

10月9日、興福寺維摩会勅使として下向します(~16日)。

10月、彰子の入内に際しての屏風の和歌の清書をさせられます。

11月7日、敦康親王誕生に関して、いろいろと働かされます。

11月11日、「元白唱和集屏風」の色紙形を書き終えます。

11月13日、「花山法皇の熊野御幸は止めたほうがいいんじゃないっすかー?」と一条天皇に伝えるというメンドクサイ役を、道長から押し付けられる。

12月1日、橘道貞にいた昌子内親王が亡くなります。

12月7日、数日前から、一帝二后について一条天皇に意見を奏上します。このあたりも、メンドクサイ役を押し付けられていますね。



28回「一帝一后」(999~1000年)ごろの行成

行成は、道長と詮子の「一帝二后大作戦」の実現のために奔走します。

行成は、このときに一条天皇を説得した理屈を、後に日記『権記』に書き残しています。

曰く「藤原氏出身の后の大事な仕事として、国家的な大原野神社の神事というものがある。この神事は、本来、天皇の中宮の大事な仕事である。ところが、今いる三人の后、皇后遵子、東三条院詮子、中宮定子はみんな出家して仏に仕えているので、国家のために神を祀る儀式を中宮どころか、誰も執り行えない。だから、国家のために神を祀る神事を執り行う后が必要なのだ。繰り返すが、この神事は、本来、天皇の中宮の大事な仕事である。なので、定子への給与には神事を執り行うための公金も含まれている。なのに、定子は公務である神事に公金を使わず、自分の私用にしか公金を使ってねーじゃねえか」

というものです。

行成が奔走したかいがあって、長保2年正月28日、いけにえの姫彰子ちゃんの立后が決定しました。


一条天皇が定子ちゃんをぜっさん連れ込み中の3月14日に、

行成はまた辞表を叩きつけています


4月27日、道長に田鶴(頼通)の後見を頼まれます。なお、道長はその夜に一条天皇に辞表を叩きつけます。

道長の病気は続き、怨霊の仕業かとおののきます。結局道長は計三回辞表を提出します。

行成は、道長から「オレの病気が治るように、伊周を赦免するように一条天皇に頼んでくれ」と命じられます。

行成は「病人のたわご、、、ゲフンゲフン。「邪気のせい」でそのようなことをおっしゃっているのだ」と思いつつ、一条天皇に報告します。

一条天皇に軽くスルーされたことを道長に伝えると、道長は「目を怒らし、口を張り」という邪気まみれの形相を表します。

これを見た行成は、「勝ち組なったゆーても、醜、、、ゲフンゲフン。「邪気のせい」でそのような表情をお見せになるとは、世の無常とはせつないものだ」と思います。


9月10日、白川寺からの帰り道で、盗賊に襲われて矢を射かけられます。


12月、定子が亡くなったころ、行成の妻と子も病気になりました。じきに治りますが。


長保二年(1000年)約28歳

正月、大江匡衡のグチを聞かされます。

2月23日、道長邸の寝殿の障子の色紙形本文を書かされます。

3月13日、東宮居貞親王に命令された書写四巻を提出します。

3月14日、蔵人頭の辞表を叩きつけます。翌日に却下されます。

3月16日、天皇に命令されて書いた手習いを提出します。

3月19日、藤原斉信に頼まれて「法華経」の外題を書く。

4月7日、彰子の内裏参入に際して、行成が叙位の事に関与します。

4月27日、道長が病気だから引退しよっかなーと辞表を叩きつけたときに、行成は後のことを押し付けられかけます。道長の引退が認められなかったので、行成は事なきを得ます。

5月14日、詮子に命令されて、「法華経」の外題と願文を書かされます。

5月26日、勧学院別当として、いろいろと働かされます。

7月13日、天皇の日記に関する書写関係のしごとを命じられます。

7月16日、殿舎と門の額字を書き始めます。

8月20日、新女御尊子の母繁子からのプレゼントを断ります。

8月25日、道長に命令されて、葉子六帖に和歌を書かされます。

9月10日、白川寺に行ったら、帰り道で盗賊に矢を射掛けられます。

10月11日、清涼殿東廂の色紙形を書かされます。

10月21日、正四位下となります。

11月25日、いろいろ書かされます。

12月2日、「孝経」の外題を書かされます。

12月13日、息子と娘が着袴します。

12月、従兄弟の成房が出家騒ぎを起こしやがります。




29回「母として」(1001年)ごろの行成

2月に辞表を叩きつけることによって、蔵人頭から参議に成り上がろうとした行成ですが、辞表は一条天皇から突き返されました(4月にも却下されます)。

一条天皇はさらに、行成に敦康親王を担当してくれと要請されます。行成にとって定子の子の側につくことは、政治生命上かなりのリスクをともなうことを意味します。

結局行成は参議にはなれず、敦康親王の家司別当(けいしべっとう)という敦康家執事長的な仕事をさせられることになります。


ここで、行成は中国の故事を引いて、敦康親王を中宮彰子に育てさせるよう、一条天皇を説得します。その結果、8月から敦康親王は中宮彰子に養育されることになりました。


なお、2月には行成の永年の悲願であった世尊寺供養が実現します。


8月1日、息子が生まれます。

8月25日、ついに参議に任じられます。数え年30歳のことでした。なお、参議となった年齢は、公任が27歳、斉信も30歳、源俊賢は37歳、ロバート実資は33歳です。


10月に行われた東三条院詮子の四十歳祝のときは、リハーサルも本番も厳君を褒めています。

リハでの道長の小躍りに対して、軽率だなあと感想を漏らしています。

(この一件は、ドラマの演出と原作(史実)の違いがかなりおもしろいので、下の動画か、ブログ「田鶴のトラウマ・厳君のトラウマ (史実で楽しむ 光る君へ解説・考察 ep 30(第29回)「母として」)」でぜひ詳しくチェックしてみてください)


ドラマでは、詮子は10月9日に倒れてそのままだったのですが、実際の詮子は10月27日に石山寺に詣でていて、行成はそのお供をしています。


ドラマの最後で詮子が「伊周をもとに戻して」と言って、道長がえーんえーんと泣くのですが、あのあと、閏12月17日、崩御寸前の詮子が行成邸(三条第)に移ってきました。行成が長く東三条院(詮子)の別当をつとめていたからだと思います。なお、行成は他所に移っています。

詮子は最後は行成邸で亡くなりました。


長保三年(1001年)約29歳

正月7日、出家騒ぎを起こしやがったメンヘラ成房を飯室から引っ張って帰京します。

正月9日、道長に命令されて、四尺屏風四帖の色紙形を書かされます。

正月10日、故定子三七忌法事の願文を書きます。

2月4日、蔵人頭の辞表を叩きつけますが、却下されます。逆に、またなんか書けと命令されます。

2月28日、敦康親王家別当となります。

2月29日、世尊寺供養です。

3月10日、世尊寺を御願寺として定額寺に列する勅許を得ます。

3月15日、道長邸で短冊を書かされます。

3月18日、辞職どころか、中将も兼任しろと言われます。やってらんねーんで、この前出家騒ぎを起こしやがった従兄弟成房に押し付けます。

4月22日、「法華経」の外題を書かされます。

4月23日、蔵人頭と右大弁の辞表を叩きつけます。翌日に却下されます。

5月15日、清涼殿母屋の障子になんか書かされます。

5月28日、まひろのおじいちゃんである藤原文範経由で依頼されていた「万葉集」を写し終わって、もとの依頼者に直接送ります。って、文範が死んで、もう6年ぐらいたつんだけど。。。

8月1日、男子(良経)が生まれます。

8月3日、この日までに彰子が敦康親王を養育することを一条天皇を説得します。

8月23~25日、参議となります。右大弁と大和守は兼任したままです。

9月6日、今までどおり東三条院別当も続けてね、という令旨を受け取ってしまいます。

10月3日、侍従も兼任させられます。

10月8日、和歌を書かされます。

10月9日、良経が為尊親王のもとで養育され始めます。情操教育に悪そうなとこですねえ。

10月9日、詮子四十歳算賀の陪膳をさせられますが、一条天皇とか道長がお祝いを台無しにしやがります。

10月10日、昨日はおつかれっすということで、従三位となります。

10月27日、詮子の石山寺詣でに供奉します。

閏12月17日、危篤の詮子が行成邸に遷されます。メンドクセ。そして、22日にそこで崩御します。あ~、メンドクセ。


30回「つながる言の葉」((1002~)1004年)ごろの行成

長保四年(1002年)約31歳

10月に妻を失います。出産を前にした行成の妻は赤痢にかかり、子を生んだあとに亡くなりました。なお、生まれた子も誕生の2日後に死んでいます。

約30歳の行成にとって、14年と人生の半分もいっしょにいて、子どもを7人ももうけた最愛の妻との別れでした。行成は、『権記』に「非慟の極み、何事かこれに如かん」と書き残しています。

2月3日、結局従兄弟の成房が出家します。

相変わらず、いろいろと書かされています。

12月22日、詮子の一周忌御斎会の行事を勤めます。


長保五年(1003年)

権力にもとづく道長の政治とぶつかっているようです。

3月23日、一条天皇から、世尊寺に多宝塔を建てていいよって言われます。

5月27日、道長の宇治遊覧につきあわされます。(~28日)

8月29日、敦康親王のために世尊寺で御修法を行います。

10月4日、世尊寺の額を書きます。


10月、二年前に火事になった内裏が建て直されたとき、行成は内裏の諸殿門の額を書きます。書道の名人、三跡の面目躍如ですね。

この功で、行成は11月5日に正三位となります。


11月25日、夢の中で小野道風と出会って、書法を授けられたり書道トークをしたりします。ホントに、夢で見るほど書道が好きなんだね。


長保六年/寛弘元年(1004年)

正月9日から病気になるのですが、忙しく、病気をおして道長邸で脩子内親王と一条天皇の体面の儀に献ずる屏風の和歌を書かされたりしています。病気は以後も続きます。


ドラマでは、相変わらず苦労してぱたぱたと働いています。後半の宴でやっと一息つけたといった感じでしょうか。

一条天皇が、行成の書を見てほっこりしていましたが、あの書はたぶん、、、


閏9月21日、道長の宇治遊覧につきあわされます。(~22日)ドラマ後半の宴会のシーンはこのときのもののようです。

10月14日、松尾社行幸に従います。



解説:実際の藤原行成・その後の行成

一般的には、「こうぜい」と呼ばれることが多いです。右近衛少将義孝の子で、母は源保光の娘です。行成の祖父に摂政伊尹(これただ)がいました。

しかし、権力者の祖父伊尹が行成が生まれた年に死に、3歳のときには父義孝も亡くしため、青年期は不遇でした。

一条天皇に蔵人頭に抜擢されたら、めきめきと頭角を現し、一条天皇の四納言の一人に入る優秀な実務家となりました。一条天皇には最後まで頼られます。

あ、定子の子敦康親王を差し置いて、彰子の子敦成親王を立太子するときも、理屈をこねて一条天皇を説得しましたね。

ちなみに、道長が死去した日に行成も死にました。


【その後】


弘二年(1005年)

このころになると、露骨に道長のために動きます。

正月3日、道長から彰子の手跡をもらいます。

正月8日、道長に(行成の?)手跡を届けます。

2月5日~7日、春日祭上卿代として春日社に参向します。

6月19日、左大弁となります。

8月14日、最勝講に際して、「最勝王経」の外題を書かされます。

9月17日、道長から借りていた「往生要集」を写して返したら、写した方を道長に取り上げられて、原本の方を押し付けられます。

9月20日、道長に依頼されていた木幡浄妙寺の鐘銘を道長のお家まで持っていきます。天皇にも命令されて、比叡山に送る(おそらく敦康親王の)御願書を書きます。

9月26日、帥宮(敦道親王?)に頼まれて、「法華経」の外題を書きます。

10月18・19日、道長の小幡浄妙寺供養に際して、また寺額、鐘銘、呪願文などを書きます。

10月21日、一条天皇に命じられて、「大般若経」の外題を書きます。

11月、また内裏が焼けて、こんどは神鏡までが焼損したので、行成は奉告のための伊勢使となります。

12月10日、勅使として伊勢大神宮に向かいます(18日に帰京します)。

12月21日、源俊賢たちとともに、内裏再建の造宮行事をさせられます。

12月17日、播磨守を兼任します。


寛弘三年(1006年)

2月21日、道長に命じられて、「白氏六帖」の手筥に銘を書きます。

3月5日、三条院における和歌の宴で、執筆役となります。

3月16日、約8歳の実経が童殿上となります。

4月2日、世尊寺に等身の金色阿弥陀像を安置します。

4月23日、一条天皇に命じられて、「仁王経」の書写を始めます。

7月3日、焼損した神鏡を改鋳するかどうかの会議のとき、行成を多数は改鋳に反対します。


寛弘四年(1007年)

正月1日、空海作の美福門の額字を修飾します。

正月20日、造宮行事としての功により、従二位となります。二位の参議はかなりめずらしいです。

2月28日~30日、道長の春日詣に従います。

3月3日、道長が上東門第で曲水宴を行います。

4月28日、皇太后(遵子)宮権大夫を兼任します。上司の大夫は公任(遵子の弟)です。

6月28日、自分でまとめた「漢書伝」を献じます。

7月12日、一条天皇に命じられて、「仁王経」を一部金泥で書きます。

7月15日、一条天皇の命令で書いたお経の外題を持参します。

8月11日、道長の金峯山詣に際して、道長の埋経を行います。

10月10日、道長邸の経供養の願文を書きます。

11月20日、行成の後妻が女子を生みます。

12月2日、浄妙寺多宝塔供養の願文を書きます。

12月12日、内大臣藤原公季の法性寺三昧堂供養に際して、西門の額を書きます。


寛弘五年(1008年)

正月1日、元日節会の宣命使を勤めます。

3月21日、娘のために「大般若経」を書き始めます。

3月22日、花山法皇の七々日忌のための願文を書きます。死にかけている勧修大僧正から、行成に「天道、命を賜うに三年」という手紙が届きます。一条天皇の余命を予言したものかと言われています。

8月15日、道長に命じられて書写した「後撰和歌集」を持っていきます。

9月15日、敦成親王五夜の和歌の序を作成します。

9月末、後妻が双子の男子を生みますが、二人とも1~2日死んでしまいます。

10月30日、兵部卿を辞任します。

12月5日、道長に命じられて、渡宋中の寂昭への返書を書きます。

12月20日、敦成親王百日の儀の和歌を書きます。


寛弘六年(1009年)

3月1日、道長に命じられて書写した「九条殿日記」を持っていく。

3月3日、権中納言になります。侍従と皇太后宮権大夫を兼任しています。

5月23日、「大般若経」供養に一条天皇の願文を書きます。

8月4日、北野宮・大学寮の額を書きます。

11月15日、中宮御所での和歌の宴で執筆をつとめます。

12月4日、敦良親王の九夜の儀の和歌を執筆します。

12月14日、実経が元服します。


寛弘七年(1010年)

正月7日、実経が従五位下に叙されます。

2月、妍子が東宮と結婚する時の調度の屏風に執筆します。彰子の時と同じパターンですね。

閏2月8日、村上天皇御記を書写して、一条天皇に進上します。

閏2月14日、道綱の娘の法事の経の外題を書きます。

閏2月16日、村上天皇「康保三年夏御記」を書写して献上します。

3月11日、一条天皇の御祈のために、石山寺に遣わされます。

3月18日、内裏の「千部法華経」供養の願文を書きます。

3月20日、東宮居貞親王(三条天皇)から、手本を書けと命じられます。

春以降、敦康親王を立太子できないものかと、一条天皇に相談されます。

5月25日、いろいろと書写させられたものを献上します。

6月4日、東宮居貞親王に手本を献上します。

6月5日、「天暦八年冬記」を書写して献上します。

6月19日、いろいろと書写させられたものを献上します。

10月28日、道長に命じられて、「蓮府秘抄」の外題を書きます。

11月20日、実経が昇殿します。

11月25日、実経が左兵衛権佐となります。


寛弘八年(1011年)

4月15日、実経が斎王御禊の前駆をつとめます。

5月20日、一条天皇の一切経供養のためのお経の外題を書き終わります。

5月21日、一切経供養の願文を書きます。

5月27日、体調がヤバすぎて譲位やむ無し情況の一条天皇から、敦康親王を立太子できないものかとまた相談されます。「敦康親王はムリっしょ。敦成親王っしょ」と答える。

6月9日、叙位のときに正二位を希望しますが、却下されます。

6月11日、伊勢奉幣の告文を清書します。

6月11日、譲位後に新帝三条天皇が奉る表文を清書します。

7月11日、母など親戚を改葬します。

8月11日、いろいろと書写させられたものを献上します。

8月23日、良経が元服します。

9月15日、妍子のために「法華経」の外題を書きます。

10月16日、三条天皇の即位式で宣命使をつとめます。

10月24日、道長に命じられて、「一条院御喪間記」を書きます。

11月8日、教通に偈の執筆を頼まれます。

12月7日、冷泉院七々忌御斎会の経の外題を書きます。

12月27日、荷前。


長和元年(1012年)約40歳

2月14日、妍子立后の宣命使を勤めます。太皇太后(遵子)宮権大夫となります。


長和二年(1013年)約41歳

4月23日、道長の賀茂社参詣につきあわされます。

7月14日、中宮妍子の皇女禎子内親王九夜の和歌序をつくります。

12月15日、賀茂社行幸の勅使を勤めます。

12が19日、正二位となります。


長和三年(1014年)約42歳

正月7日、実経が従四位下となります。

正月23日、受領功過定でバトります。

11月22日、菅原院に移ります。


長和四年(1015年)約43歳

10月21日、実経が従四位上となります。

10月25日、彰子主催の道長五十賀法会に、公任といっしょに道長唱和の和歌を書きます。


長和五年(1016年)約44歳

2月7日、後一条天皇の即位式に実経と良経が殿上侍従を勤めます。

5月10日、豊楽院が転倒する夢をみて、大嘗会でなんかあるんじゃないかとロバート実資に相談します。

6月13日、勅書に関して、ロバート実資と意見が分かれます。

9月15日、大嘗会御禊の裝束使長官となります。

11月15日、大嘗会で、屏風に執筆します。結局夢が外れたみたいで良かったですね。


寛仁元年(1017年)約45歳

3月16日、道長が摂政を辞めます。

3月22日、新摂政の頼通がヘタレで、行成に左大将の辞任について相談してくる。

6月1日、太皇太后遵子が崩御したので、太皇太后宮権大夫の仕事から開放されます。

11月、病となります。


寛仁二年(1018年)約46歳

正月7日、良経が従四位下となり、10日に昇殿を許されます。

3月13日、行成の娘が道長の息子の長家と結婚します。

12月、敦康親王が亡くなります。


寛仁三年(1019年)約47歳

3月21日、道長が出家します。

4月17日、大宰府から、女真族が攻めてきたことが飛駅奏上され、行成が対応します。

6月29日、公卿定において、刀伊の入寇を撃退した賞は、勅符到着前だったのでしなくていいと言い出す。

12月21日、大宰権帥を兼任します。


寛仁四年(1020年)約48歳

5月20日、実経の従者が、藤原斉信の従者と乱闘します。

11月29日、権大納言となります。大宰権帥を辞任します。

閏12月30日、勅授帯剣を許されます。


治安元年(1021年)約49歳

2月1日、道長の娘の嬉子が東宮に参入(結婚)するのに供奉します。

3月19日、長家と結婚した娘が亡くなります。

10月28日、賀茂斎院別当となります。どうすりゃいいか分からなかったので、ロバート実資にたずねます。


治安二年(1022年)約50歳

4月28日、皇太后妍子に黄牛を贈ります。

7月14日、道長の法成寺金堂建立供養に出席します。

12月21日、息子の行経が元服します。


治安三年(1023年)約51歳

正月7日、行経が叙爵します。

正月19日、実経が守をつとめる但馬国の土地争いについて詮議が命じられます。

正月21日、行成邸にいた但馬郡司七人が検非違使にしょっ引かれます。

6月2日、但馬国の件で、実経の職務停止が決まります。7月3日に解除されます。

12月8日、道長の子の能信といっしょに勤めた仕事の件で、道長が怒る。


万寿元年(1024年)約52歳

正月1日、元日節会参内の故実について、ロバート実資などと議論がある。

正月26日、行経が右兵衛佐となります。


万寿二年(1025年)約53歳

正月16日、踏歌の節会で藤原斉信が失錯したことを扇に書きます。

正月29日、行経が右近衛少将となります。

8月15日、嬉子の葬送に供奉します。

11月6日、春日祭で祭使を勤めます。


万寿三年(1026年)約54歳

正月4日、出家します。

2月7日、按察使を兼任します。出家したのに?

10月19日、良経が仕事の失錯で4日間除籍となります。


万寿四年(1027年)約55歳

正月7日、行経が正五位下となります。

正月26日、娘婿が逢坂山で群盗に襲われます。

4月15日、賀茂祭の上卿をやっていたら、道長の息子の頼宗の家人にバカにされます。

4月16日、頼宗の従者三人が牢屋に入れられます。

10月26日、道長が重病となります。

12月4日、道長が死んだ日に、行成も死にます。

12月16日、葬送されます。




草稿:以下は『国史大辞典』

道長の子長家を娘の婿に迎えている。諸種の才芸にすぐれ、『枕草子』『栄花物語』などに多くの逸話が伝えられ、和歌は『後拾遺和歌集』以下の勅撰集に入集し、詩文も数首伝えられている。とりわけ能書家として著名で、藤原佐理の没後はその第一人者として、能書としての多くの事跡が伝えられている。その書は小野道風に学んだといわれるが、温雅な書風で和様の大成者とされる。


万寿四年(一〇二七)十二月四日正二位権大納言で没。五十六歳。その筆跡は極官が権大納言であったことから「権蹟」とよばれ、小野道風の「野蹟」、藤原佐理の「佐蹟」とならんで「三蹟」と称される。その書流は行成の創建した世尊寺にちなんで世尊寺流という。真跡には「白氏詩巻」(東京国立博物館蔵、国宝)などがある。また、その日記『権記』があり、行成の事績のみならず、当時の政治動向などを伝える重要史料である。


年表

では、藤原行成の略年表を示します。年齢は数え年です。


972年:1歳。誕生。

995年:24歳。蔵人頭(一条天皇)。

999年:28歳。一条天皇崩御。

→権中納言、大宰権帥→

1020年:49歳。権大納言。

1027年:56歳。12月4日、死去(現、権大納言)。


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