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敦成親王(後一条天皇) 「光る君へ」人物事典08?

【目次】




敦成親王(あつひらしんのう・後一条天皇):

まずは、NHK公式の紹介を引用して、大河ドラマ上での設定を確認しておきましょう。


36話で生まれる予定です。


寛弘五年(1008年)9月11日に誕生した、一条天皇の第二皇子です。母は彰子ちゃんですね。

大事なことなので確認しておくと、一条天皇の第一皇子が敦康親王定子との子)で、第二皇子がこの敦成親王(彰子との子)で、第三皇子が敦良親王(彰子との子)です。


若くして即位して、後一条天皇となります。刀伊の入寇(1019年)と、平忠常の乱(1028年)は、この後一条天皇のときの出来事です。

9歳年上の叔母さんと結婚します。崩御したときに、死んでなかったことにされた人です(後述)。


キャスト紹介:


解説:実際の敦成親王

生没:1008‐1036年(約28歳)

在位:1016(約8歳)‐1036年


一条天皇と藤原彰子の子です。

若くして即位して、後一条天皇となります。元服のほうが即位よりも後でした。


最初は祖父の道長が摂政となり、後には伯父の頼通が摂政・関白として支えました。東宮(皇太子)については、一悶着起こります。


寛仁二年に道長の娘で、後一条天皇にとっては叔母にあたる威子を中宮に立てたことにより、道長の三人の娘が同時に后位につくことなりました。


威子との間の子に章子内親王と馨子内親王がいます。



その後の後一条天皇

寛弘五年(1008年)約0歳

9月11日、敦成親王が生まれます(母は彰子・土御門殿にて)。

10月16日、中宮彰子ママが出産で里帰りしている土御門殿に、一条天皇パパがやってきます。

11月17日、彰子ママに連れられて参内します。

12月20日、敦成親王の百日の儀が行われます。


寛弘六年(1009年)約1歳

正月30日、彰子と敦成親王を呪詛する厭物(いやもの)が発見されます。伊周はまだ生きています。

6月19日、土御門殿に遷ります。

11月25日、弟の敦良親王が生まれます。


寛弘七年(1010年)約2歳

10月11日、敦成親王の真菜始が行われます。

10月22日、敦成親王の着袴の儀です。

10月23日、彰子ママの直盧で失火があります。

11月28日、彰子ママが建て直した一条院内裏に遷ります。おそらく、敦成親王もいっしょです。


寛弘八年(1011年)約3歳

6月13日、一条天皇パパが譲位します。敦成親王が東宮となります。

6月22日、一条天皇パパが崩御します。

10月16日、敦成親王は内裏の凝華舎に遷ります。なお、彰子ママは枇杷殿に遷ります。


長和二年(1013年)約5歳

正月10日、東宮敦成親王が彰子ママに朝観行啓します。


長和三年(1014年)約6歳

2月9日、内裏が火事にあいます。(このとき、敦成親王は枇杷殿に遷ったのかな??天皇は枇杷殿に、彰子は高倉殿に遷っている)。


長和四年(1015年)約7歳

9月20日、三条天皇とともに、内裏に戻ります。

11月17日、内裏が火事になります。

11月19日、枇杷内裏に(天皇が)遷ります。


長和五年(1016年)約8歳

正月月29日、三条天皇が東宮敦成親王に譲位して、敦成親王(約8歳)が即位して後一条天皇となります。道長じいちゃんを摂政とします。

2月7日、即位式です。彰子がともに高御座に登ります。彰子ママは国母となります。

6月2日、新造の一条院内裏に彰子ママといっしょに遷ります。

11月15日、大嘗会に行幸します。彰子ママもいっしょです。


寛仁元年(1017年)約9歳

3月8日、石清水八幡宮に行幸します。彰子ママもいっしょです。

3月16日、頼通叔父さんを摂政とします。

8月9日、弟の敦良親王立太子(敦明親王が東宮を辞す)です。

11月25日、賀茂社に行幸します。彰子ママもいっしょです。

12月4日、彰子ママの令旨で道長じいさんが太政大臣に任じられます。


寛仁二年(1018年)約10歳

正月3日、後一条天皇が元服します。

4月28日、新造内裏に遷ります。彰子ママもいっしょです。

10月16日、威子おばさん(約18歳)を中宮とします。道長じいさんが望月の歌を詠みます。



10月22日、京極殿に行幸します。彰子ママもいっしょです。


寛仁三年(1019年)約11歳

2月21日、道長じいさんが出家します。

3月7日、威子おばさん(約19歳)が入内してきます。

8月28日、弟の東宮敦良親王が元服します。

12月22日、頼通伯父さんを関白とします。


寛仁四年(1020年)

4月13日、後一条天皇が疱瘡にかかったので、鬼気祭を行います。

9月10日、後一条天皇が病にかかります。


治安元年(1021年)

10月14日、春日社に行幸します。彰子ママもいっしょです。


治安二年(1022年)

6月4日、後一条天皇が病気なので、諸寺に読経させます。

6月22日、後一条天皇が病にかかります。


治安三年(1023年)

正月2日、京極院にいる彰子ママのところに、行幸します。東宮敦良親王もいっしょです。

10月13日、倫子ばあちゃんの六十歳算賀が開かれます。


万寿元年(1024年)

万寿二年(1025年)


万寿三年(1026年)約18歳

正月19日、彰子ママが出家して、上東門院となります。

5月2日ごろから、後一条天皇が病気になります。

12月9日、威子との間に章子内親王が生まれます。


万寿四年(1027年)

12月4日、道長じいちゃんが没します。


長元元年(1028年)

11月4日、亡き道長パパの一周忌法会のために彰子ママが法成寺に遷ります。


長元二年(1029年)

2月2日、威子との間じ馨子内親王が生まれます。

閏2月13日、亡き道長パパのために高陽院で頼通が主催した法華八講に彰子ママが行啓します。


長元三年(1030年)

長元四年(1031年)

正月3日、天皇と東宮が彰子ママに朝観行幸/行啓します。


長元五年(1032年)

3月2日、頼通がいる白河殿に、行幸します。彰子ママもいっしょです。


長元六年(1033年)

11月28日、倫子ばあちゃんの七十算賀が開かれます。


長元七年(1034年)

長元八年(1035年)

正月2日、天皇と東宮が彰子ママに朝観行幸/行啓します。

3月25日、彰子ママ主催の法華八講が開かれます(~28日)。


長元九年(1036年)約27歳

3月、後一条天皇が病となります。

4月17日、後一条天皇が清涼殿で崩御します。突然の死だったので、死んでなかったことにして後朱雀天皇が践祚します。

4月22日、亡き後一条院は、彰子の御在所である京極院に移されます。

5月19日、浄土寺西原において火葬されます。なお、菩提樹院陵が陵に治定されている。

7月10日、後朱雀天皇が即位します。

なお、威子もこの年の9月6日に崩御しました。


菩提樹院陵については、『国史大辞典』に「長元九年(一〇三六)五月十九日夜、神楽岡東辺の山作所の中央に設けた貴所屋にて火葬、翌朝酒を以て火を消し、御骨を茶壺に納め、呪砂を入れて壺の上に梵本の真言書一巻を結び付け、白革を以て壺を縫い、近くの浄土寺に安置した。火葬所の跡には土を覆い、その上に石卒塔婆を建て、「陀羅尼」を蔵め、四周に木柵を作り、周湟を掘って植樹した。翌長暦元年(一〇三七)六月天皇の母上東門院(藤原彰子)が火葬所に菩提樹院を建てて供養し、長久元年(一〇四〇)十一月十日に御骨を浄土寺より同院に遷した。」とあります。

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