top of page

大江匡衡:「光る君へ」人物事典080

【目次】


大江匡衡(おおえのまさひら):谷口賢志

まずは、NHK公式の紹介を引用して、大河ドラマ上での設定を確認しておきましょう。


学者。赤染衛門の夫。和漢の才に秀でている。


藤原道長行成公任らに、よくゴーストライターをさせられてる学者さんです。

まひろ元ムコの宣孝と同い年で、登場時の1006年で約54歳です。妻の赤染衛門と仲がいいことで有名なのですが、ドラマでは仲良くなさそうなのが意外でした。

なお、為時とまひろが越前に行った話がありましたが、実はそのとき、匡衡も必死に越前守にしてくれアッピールをしていました。しかし、匡衡は為時に負けてしまいました。そんで、越前に行く為時に餞別の詩を贈っています。どんな気持ち?匡衡、そのときどんな気持ちだったの?


キャスト:谷口賢志(たにぐちまさし)

1977年生まれ。東京都出身の俳優、モデルです。株式会社ソサエティオブスタイル(SOS Entertainments)所属です。

大河ドラマは初出演です。


解説:実際の匡衡

学者の家系に生まれた学者さんです。天暦六年(952年)に生まれました。まひろのムコの藤原宣孝と同い年です。長保や寛弘の年号を勘進したり、敦成親王や敦良親王の御名を選んだりしました。


約23歳で文章生となり、翌年には秀才となっています。約37歳で文章博士になれました。惟規なんかとは大違い、、、というか、まひろパパの為時も文章博士にはなれてないので、匡衡はすごいですね。

その後は、居貞親王(三条天皇)の教育担当をつとめ、一条天皇敦康親王にも教えます。


藤原道長行成公任から、文章の代作をよく頼まれます。特に行成と仲が良さそうで、昇進できなかったとグチったり、昇進できてウレシーの手紙を、行成に送っています。

妻の赤染衛門との仲が良く、赤染衛門は「匡衡衛門」と呼ばれています。


受領(国司)としての評判も高く、尾張守となったときは善政を行って治績を上げ、学校院を興したりもしました。尾張守には3回なって、他国の受領もつとめていますので、ふところは暖かかったと思います。


『江吏部集(ごうりほうしゅう)』『匡衡朝臣集』などがあります。和歌も上手く、『後拾遺和歌集』以下に12首が入選しています。


ドラマ以前の匡衡

天暦五年(952年)約0歳

この年に生まれます。


天徳二年(958年)約6歳

初めて読書します。


天徳四年(960年)約8歳

初めて詩を詠みます。


応和三年(963年)約11歳

6月7日、祖父の維時(約75歳)が没します。


康保元年(964年)約12歳

元服します。


康保三年(966年)約14歳

大学寮に入学します。


康保四年(967年)約15歳

寮試に応じます。


天延三年(975年)約23歳

10月28日、省試に及第し、文章生となります。


貞元元年(976年)約24歳

正月28日、越前権大掾となります。文章得業生となります。





1~3回:まひろ初期(977~983年)ごろの匡衡

天元二年(979年)約27歳

5月26日、対第に及第します。


天元五年(982年)約30歳

正月30日、右衛門権尉となります。

2月8日、検非違使となります。



4~11回:花山天皇期(984~986年)ごろの匡衡

永観二年(984年)約32歳

正月7日、従五位下となります。

2月1日、甲斐権守となります。

10月30日、弾正少弼となります。


寛和元年(985年)約33歳

正月6日、夜に土御門のあたりで藤原斉明に切りつけられて、左手の指を失います。この悲しみをどうすりゃいいのと、赤染衛門に「ツライよー、ヨシヨシしてよー」の歌を贈りますが、なんと全力でスルーされます

閏8月19日、藤原済時邸で詩・詩序をつくります。



12回:「思いの果て」(987~989年)ごろの匡衡

永延元年(987年)約35歳

10月14日、一条天皇が兼家の東三条殿で詩宴をしたときに、詩・詩序を作ります。


永延二年(988年)約36歳

3月3日、道長邸の宴で、詩・詩序をつくります。

8月6日、道長邸の宴で、詩・詩序をつくります。


永祚元年(989年)約37歳

正月7日、従五位上となります。

11月28日、文章博士となります。


13回「進むべき道」・14回「星落ちてなお」(990年)ごろの匡衡

正暦元年(990年)約38歳

正月7日、一条天皇元服の賀表を作ります。

3月17日、兼家の辞表(二通目)を作ります。

4月21日、兼家の辞表(三通目)を作ります。

5月5日、兼家の辞表(四通目)を作ります。

6月、兼家の遺言的なものの一部を作ります。兼家は7月2日に没します。


正暦二年(991年)約39歳

正月1日、次侍従となります。


正暦三年(992年)約40歳

正月20日、尾張守を兼任します。

9月9日、重陽宴に参加します。



15回「おごれる者たち」(993年)ごろの匡衡

正暦四年(993年)約41歳

正月11日、弁官・衛門権佐・大学頭などを兼任させてくれと願う奏状を奉ります。

正月22日、内宴に詩をつくり、講師となります。



16~18回「岐路」(994~995年)ごろの匡衡

正暦五年(994年)約42歳

2月17日、道隆のために積善寺を御願寺とすることを願う奏状を作成します。


長徳元年(995年)約43歳

正月7日、正五位下となります。

2月5日、道隆に頼まれて、関白の辞表(第二表)を作成します。

2月9日、疫病退散の仁王会の呪眼文を作成します。

2月26日、道隆に頼まれて、関白の辞表(第三表)を作成します。

8月28日、式部権少輔を兼任します。



19~21回:長徳の変(996年)ごろの匡衡

長徳二年(996年)約44歳

正月15日、越前守と尾張守を兼任させてくれという奏状を奉ります。しかし、為時に負けてしまいました。そんで、越前に行く為時に餞別の詩を贈っています。

4月2日、備中介兼任を願う奏状を奉ります。

閏7月12日、六月にあった省試の判定をサボって怒られます。

9月~12月、省詩に及第した詩にイチャモンをつけます。



22~26回:長徳年間(997・998年)ごろの匡衡

長徳三年(997年)約45歳

正月28日、越前権守を兼任します。なお、越前守は為時です。

3月9日、東宮学士を兼任します。

10月12日、道長邸の詩宴で詩・詩序を作ります。

12月12日、道長邸の詩宴で詩・詩序を作ります。


長徳四年(998年)約46歳

正月7日、従四位下となります。

正月25日、式部権大輔となります。

正月、道長邸の詩宴で詩・詩序を作ります。

3月12日、道長に頼まれて、左大臣と内覧の辞表を作ります。

7月15日、行成に頼まれて、蔵人頭と左中弁の辞表を作ります。

10月23日、昇殿を許されて、侍読となります。

この年、頼通の読書始めで『古文孝経』を教授します。



27回「宿縁の命」(999年)ごろの匡衡

長保元年(999年)約47歳

正月13日、長保改元の年号を勘申します。要は、匡衡が「長保」を提案してきたということです。

5月6・7日、道長邸の詩宴で詩・詩序を作ります。

6月9日、清涼殿の詩宴で詩・詩序を作ります。

7月3日、ロバート実資が亡き真凛ちゃ、、、婉子女王の周忌法事を行うので、願文を作ります。

7月21日、臨時仁王会の呪眼文を作ります。

8月18日、行成邸で雑談して、定子ちゃんの入内をディスります。

9月6日、行成に頼まれて、蔵人頭の辞表を作ります。

9月12日、道長の嵯峨遊覧のときに、詩を献じます。

9月30日、内裏の詩宴で詩・詩序を作ります。

11月20日、五節の件でロバート実資邸を訪れます。



28回「一帝二后」(1000年)ごろの匡衡

長保二年(1000年)約48歳

3月2日、道長邸の詩宴で詩を作ります。

3月4日、中宮彰子の諸社奉幣の告文を作ります。

5月9日、道長に頼まれて、左大臣の辞表(第二表)を作ります。

5月18日、道長に頼まれて、左大臣の辞表(第三表)を作ります。

5月11日、詮子姉さんが病気になったので、占いします。

5月18日、詮子姉さん病気平癒の大赦の詔にイチャモンをつけて炎上させます。この炎上は12月まで半年以上続きます。

9月24日、内裏の詩宴で詩を作ります。

10月17日、内裏の詩宴で詩を作ります。

12月2日、敦明親王の読書初めで詩・詩序を作ります。



29回「母として」(1001年)ごろの匡衡

長保三年(1001年)約49歳

正月24日、尾張権守を兼任します。2月29日に尾張に向かいます。

6月26日、いつのまにか帰京していて、行成のお家を訪問します。

7月、赤染衛門といっしょに、また尾張国に赴任します。

8月、『大般若経』の書写を始めます。



30回「つながる言の葉」((1002~)1004年前半)ごろの匡衡

長保四年(1002年)約50歳

春、赤染衛門といっしょに熱田神社に参詣します。

10月22日、故詮子姉さん追善の法華八講に願文と詩を作ります。

12月9日、道長に頼まれて諷誦文を作ります。


長保五年(1003年)約51歳

正月7日、従四位上となります。

11月5日、火事で焼けた内裏を新規に建て直した功で、正四位下となります。


寛弘元年(1004年)約52歳

3月3日、御書所の詩宴で詩・詩序を作ります。

春、一条天皇の尚書読書で侍読をつとめます。



31回「月の下で」(1004年後半)ごろの匡衡

7月20日、寛弘改元にあたって、その年号を勘申します。要は、匡衡が「寛弘」を提案してきたということです。

10月14日、熱田神社に大般若供養を行って、願文を作ります。



32回「誰がために書く」(1005)ごろの匡衡

寛弘二年(1005年)約53歳

尾張守の任期が終わります。おわりなだけに!

7月10日、御書所衆を選ぶ学生試の評定に参加します。

7月21日、一年近くもサボってやがった公任に頼まれて、中納言と左衛門督の辞表を作ります。こうかはばつぐんだ! あわてた一条天皇は、公任に「出世させるから仕事してー」ということで、公任は出世します。

9月3日、内裏の詩宴で詩をつくります。

9月15日、道長邸の詩宴で詩を作ります。

9月28日、浄妙寺の鐘銘と序を作ります。

10月19日、浄妙寺三昧堂供養願文を作ります。

11月13日、敦康親王の読書初めの侍読をつとめて、詩も作ります。



33回「式部誕生」(1006年)ごろの匡衡

寛弘三年(1006年)約54歳

正月、式部権大輔を辞職します。

3月4日、天皇が主催した東三条殿の詩宴で、詩・詩序を作り、講師もつとめます。

3月5日、以前から行っていた一条天皇への『貞観政要』(帝王学の本)の講義が終わります。効果なかったな、ザンネン。

この年、天皇に『老子』を講義します。



その後の匡衡

寛弘四年(1007年)約55歳

3月3日、道長の曲水宴で、詩・詩序を作ります。

4月25・26日、内裏の詩宴で詩を作り、講師もつとめます。

9月9日、重陽の宴で詩・詩序を作ります。

9月17日、道長邸の詩宴で詩を作ります。

9月20日、東宮学士を辞職します。

9月23日、道長邸の詩宴で詩を作ります。

10月1日、道長の法性寺仏像供養に願文を作ります。

12月2日、道長の浄妙寺多宝塔供養に願文を作ります。



寛弘五年(1008年)約56歳

正月11日、また式部権大輔となります。

5月1日、道長邸の詩宴で詩を作ります。

10月4日、彰子ちゃんが9月に産んだ皇子に、「敦成」と名をつけます。


寛弘六年(1009年)約57歳

正月15日、美濃守になりたいという奏状を奉ります。

正月28日、尾張守となります。

3月、また文章博士となります。

5月6日、道長邸の詩宴で詩を作ります。

6月、道長邸の詩宴で詩を作ります。

7月7日、内裏の詩宴で詩を作ります。

8月28日、臨時仁王会の呪眼文を作れと命じられます。

10月28日、尾張国府に着任します。

12月14日、彰子ちゃんの次男に「敦良」と名をつけます。


寛弘七年(1010年)約58歳

2月、式部大輔となります。

2月1日、釈奠に参加します。

3月18日、内裏の千部法華経等供養に願文を作ります。

3月20日、丹波守に変わります。

11月25日、侍従を兼任します。


寛弘八年(1011年)約59歳

3月27日、道長の土御門殿の阿弥陀仏・阿弥陀経供養の願文を作ります。

5月21日、一条天皇のために、一切経供養の願文を作ります。

5月23日、一条天皇、発病します。匡衡の願文、効果無え。。。

5月25日、道長に頼まれて占いします。

6月22日、一条天皇が崩御します。

8月9日、ロバート実資邸を訪れて雑談します。

8月11日、一条天皇の49日の願文を作ります。

9月30日、内御書所の詩宴で詩を作ります。


寛弘九年/長和元年(1012年)約60歳

6月4日、自分の死後の赤染衛門などを、ロバート実資に託します。

6月25日、北野天神に奉る祭文を作ります。

7月16日、没します。


閲覧数:100回0件のコメント

コメント


bottom of page