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執筆者の写真順大 古川

平塚らいてう:生徒質問




【生徒質問】


①「平塚らいてうは本名ですか?」

筆名です。「雷鳥」を仮名書きしたものです。本名は平塚明(はる)

ちなみに、明の母親の名前は光沢(つや)。らいてうは、この母親の出資で『青鞜』を発刊しています。何となく名前がぴかぴかしてる親子です。

さらに、明(平塚らいてう)の娘は曙生(あけみ)なので、三世代で輝きまくっています。


出典

ジャパンナレッジで「平塚らいてう」「新婦人協会」「新しい女」など検索

日本思想史事典「新しい女と女性解放」の頁

などです。



②新婦人協会は「新婦人」の協会ですか? 新「婦人協会」ですか?

「新婦人」の協会です。

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパでは女性運動が盛り上がりました。男性にのみ認められていた権利を女性にも与えよというもの。参政権獲得などが目指されました。そのなかで活動に大きな影響を与えたのが、女性を男性と同等に、平等に扱うことに賛意を示した小説で用いられた「新しい女性(new women)」という言葉。

この言葉が日本に入ってきた(日本語に翻訳された)のは、1910年の坪内逍遙の講演「新しい女」だとされています。


1911年、イプセンの「人形の家」が日本で上演されました。

主人公ノラは夫に溺愛される妻であり、3児の母でしたが、金銭的なトラブルなどから夫に口汚く罵られることになります。そのトラブルが解決した後、夫は再びノラと仲良くしようとしますが、ノラは自身が人形のようにかわいがられていただけであったと悟り、妻であり母である前に一個人として生きることを目指し、夫と子供をおいて家を出ます。

という物語の主人公ノラの生き方は議論の的となり、『青鞜』誌上でも取り上げられました。ノラは「新しい女」の代名詞となりました。


『青鞜』(1911年創刊)はあくまで女性による文芸雑誌であり、当初は女性運動を展開する媒体ではありませんでした。

しかし、主催した平塚らいてうは『青鞜』発刊の数年前にとある作家と心中事件を起こして世間を驚嘆させています。そのらいてうらが示した「男女不平等を認める因襲を打破し、婦人の新しい地位を獲得しようと自覚した婦人」=「新しい女」というものは特に男性から批判を浴びることとなり、「新しい女」は青鞜社の同人らを揶揄し蔑む意味合いを帯びていきます。

こうした世間、男性中心のジャーナリズムからの嘲笑は、青鞜社同人の平塚らいてうらを女性解放運動へと突き動かしていきます。1913年、らいてうは「私は新しい女である」と題したエッセイを『中央公論』に発表し、自らを「新しい女」であると宣言します。


新婦人協会は綱領に「(一)男女の機会均等、(二)男女の価値同等観の上でその差別を認め協力、(三)家庭の社会的意義の闡明、(四)婦人・母・子供の権利」をうたっており、まさしく「新しい女」による活動団体だったわけです。これは平塚らいてうの思想の影響を強く受けたものです。


さて、婦人参政権について。

明治期以来、女性に求められていたのは「良妻賢母」であることでした。女子教育は良妻賢母の育成を目指す教育です。明治初頭は男女ともに人格を尊重する男女同権の教育が主流でしたが、1880年代ころから男女で教育内容を分ける教育が広まります。儒教的な道徳に基づく男尊女卑を基調とする教育です。

こうした教育が定着していき、そして「男は外、女は内」という、性別役割分業の考え方から、女性の政治活動については、女性が政治(外)に関わるのは望ましいことではない、女性の本分は家庭にあり政治に関与するのは国体に反する、という考え方が主流で、普選運動も、男性のみの普選獲得運動でした。


女性の参政権獲得に向けて、まず障害となるのは治安警察法の第五条でした。女性運動家たちは、女性が政治的権利の無い状態であることが活動上不利であることを自覚しており、治安警察法の第五条改正が喫緊の課題であったのです。新婦人協会も、治安警察法改正を求めて運動を行います。

ちなみに、新婦人協会は婦人参政権獲得運動は行っていません。新婦人協会の主要メンバーであり、後にらいてうと決別した市川房枝は、婦選獲得を目指して1924年に婦人参政権獲得期成同盟会を結成しました。婦人参政権獲得期成同盟会は、1925年に婦選獲得同盟と改称しています。


出典、

ジャパンナレッジで「平塚らいてう」「新婦人協会」「新しい女」など検索

日本思想史事典「新しい女と女性解放」の頁

などです。









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