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執筆者の写真順大 古川

夏目漱石の試練 斑鳩 3: レトロゲーマーが思い出す日本史【誰も得しない日本史】

偏見と悪意で歴史トーク。誰も得しない日本史です。


夏目漱石は、著書『草枕』の冒頭で「意地を通せば窮屈だ」と言いました。

 

 

《英語訳してみよう》

 

ー試練ー 

 

自らの意志が、強固であるほど

様々な試練に苛まれるものだ。

無論、試練を目前に避けることも

出来れば、逃げる事も出来る。

だが、試練の真意は、そんな己

の心を克服することにある。

 

 

意志が強いことと、頑固なこととは違うのではないか、と思うことがあります。

 

意志が強い人間は、人の意見を聞き入れますよね。そう言った人間は目標がはっきりとしているから、そこまでの過程に過ぎない今の自分と、現段階での自分のやり方を積極的に修正するんだと思います。

歴史を眺めていても、意志が強い人は、変わることも、逃げることもできるようにみうけられます。目先の変革も逃亡も、目標へと向かう過程だからでしょう。勝つために変わるし、勝つために逃げるんです。

 

Change before you have to.

(Jack Welch)

「変革せよ。変革を迫られる前に」

by ジャック・ウェルチ(米国の経営者)

 

さらに言えば、目標に至るために、負けることさえできる。そういった人は、負けかたや、負けからの復活がうまいんです。劉邦、劉備、源頼朝、織田信長とか、よくもまあ、っていう負けっぷりを見せてくれます。

「調査兵団は未だ負けたことしかないんだよ?」は、進撃の巨人の至言でしょう。

 

それに対して、頑固な人間は、ガラスのような自尊心を守るために、自己を防衛して外部の意見を聞き入れない人にみえる。小さなプライドを抱きしめてオドオドしてるようにみえる。結論を先に決めていて、考えることを放棄しているのではないだろうか。 

 私の場合、二十歳くらいのときは「この歳でニンテンドーハードは、子どもっぽくて持てない」とか言ってたし、好きなゲームやってるときも、うまいフリして、素直にいろんな人の意見を聞くこともできませんでした。

どの動画だったかは忘れたけど、高田馬場ゲーセンミカドのイケダミノロック氏の言葉は、以上のことをよく言い表していると思ったことがあります。それは笑い話のようにみえて、はからずも、イケダ氏がどういう人間なのかを垣間見せてくれました。イケダ氏は、昔はある種のゲームには偏見もっててプレイしなかった、的な話をしている時に、次のようなことを言いました。

 

「オレ、若いときは老害だったもん。若いときのほうが老害だった。」

 

歳を重ねるにつれ老害ではなくなっていく。私はそんな人生が歩めてるでしょうか。

 

 

…あ、ソシャゲーみたいな新しいタイプのゲームとか、貫通弾とか認めませんから。20年前からずっと結論はアーケードゲームで、ミヤモトです。さあ、みなさんもガインとかワイルドスネイルとかやめて、キャラ選びを考えるのもやめて、信念をもってミヤモト老害クラブに入りましょう。

 

 

《英語訳》

 

-Trial-

 

The stronger will you have,

the more you face various

trials. Although you can

choose to escape, "Trial"

has the message for you to

conquer yourself.

 

 

せっかくですから、『草枕』をもう少し読んでみましょう。

 

夏目漱石『草枕』

「山路を登りながら、こう考えた。

智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

住みにくさが高じると、安いところへ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟ったとき、詩が生れて、絵ができる。

人の世を作ったのは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三件両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。」

 

イギリスに留学して、外の世界から日本を見たことのある漱石は、どこかに理想の世界があるわけではないと言う。今自分が居るところがイヤだといったところで、どこに行っても、行ったその先も人間が作った人間の社会でしかない。結局は、その行った先も住みにくいのだ。

夏目漱石がこの部分で言いたかったことは、どこに行っても変わらないから、今の場所で楽しむことを考えようぜってことでしょう。「おもしろきことのなき世を面白く」(高杉晋作)といったところでしょうか。

 

ただ、私的にはこういった考え方には、ちょっと待ったをかけたい気持ちがあります。どこに行っても変わらないことも確かにありますが、それだけだと乱暴な言い方ではないでしょうか。だって、やっぱり場所によって、環境の違いって大きいと思います。

私だったら、どちらかというと次の側面を強調したいです。

 

「環境を変えることは、環境に適応するのと同等の価値を持つ」

 

シャチに生まれたんなら、山に適応しようなんて思わず、海に行って無双すればいいじゃん。

ライオンに生まれたんなら、泳ぎの練習なんてせず、サバンナに向かって走ればいいじゃん。

 

日本人は、環境を変えようとすることを、すぐ「逃げる」と言う。がまんする価値のない環境に留まることを、「試練」だと言う。

ホントにそうでしょうか?

環境を変えるのって、ものすごいエネルギーが必要じゃないでしょうか?

その場に留まって戦っているふりをしていても、本当は考えることを止めただけってことはないでしょうか?

 

自分に問いかけたいことは尽きません。。。

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