関東管領の上杉憲実の任国統治の評判や、足利学校で講義していた科目について質問があったので、人物叢書『上杉憲実』で調べてみました。
読んで、最初にへ~って思ったのが、そもそも上杉家がなんで関東管領やってるのかってのは、足利尊氏の母親が上杉家の人だからだってこと。そんで、憲実は10歳で関東管領や守護になってます。そのころは、大人が補佐していたようです。はえ~。あと、そのときの関東公方足利持氏は22歳。若い!
結論からいうと、
上杉憲実の任国統治については、ほぼ書いていなかったです。
なんでかっていうと、
応仁の乱より前の時期の東国守護や関東管領って、原則としては鎌倉在住なんですよ。そして、任国には代理人を送って統治させてるんです。守護が在京/在鎌倉というのは、鎌倉時代から室町時代まで、全国的な原則です(大内・今川とか一部例外あり)。
上杉憲実も9歳で鎌倉入りして10歳で守護や関東管領となってから引退するまで、任国統治にはほぼ直接関わっていません。そのため、上杉憲実の事跡はどうしても、上野国などの守護として何をしたかではなく、関東管領として鎌倉府のために何をしたかが中心となります。
室町幕府側から見た憲実の評価は
「凡安房守、都鄙事一大事ト存スル者也」(『満済准后日記』永享四年三月二十九日条)
すなわち、「憲実(安房守)は京都と鎌倉の関係を最も大事に思っているヤツだ」というものでした。
じゃあ、関東管領としての上杉憲実はというと、
「京都の将軍・足利義教と対立している鎌倉公方・足利持氏の下で、将軍と鎌倉公方の間を取り持とうとして頑張り続けた。しかし、足利持氏がついに反乱を起こしたので、足利義教と上杉憲実が協力して足利持氏の反乱を鎮圧した。」
というものになります。
なお、上杉憲実の任国統治を僅かなりともうかがわせるものとしては、『鎌倉大草紙』の
「(憲実は)礼法をたっとみ、民を撫で、政道を専とし、諸士をあわれみ、絶えたるをつぎ、すたれたるをおこし、政道ただしくして人のなげきもなかりけり」というものがあります。
ここからさらに踏み込んで、各任国で具体的に何があったのかを調べるなら、群馬県(上野国)、東京都(武蔵国)、静岡県(伊豆国)などの各県市にあたっていくのがいいと思います。
次に足利学校で何を教えていたのかです。
文安三年(1446年)六月晦日の「学規三条」(「榊原家所蔵文書」)に、足利学校の講義内容などについて書かれているようです。
そこには、「儒学」より外は禁ずると述べられているそうです。
永享十一年(1429年)に、上杉憲実が儒教の基本経典である五経(周易・尚書・毛詩・礼記・春秋)を寄付していることからも分かります。こうした書籍には、武蔵国の金沢文庫から持ってきたものも多く含まれるようです。
少し面白いのは、上杉憲実が易(占い)が大好きだったため、足利学校では易学(周易)を重んじていたそうです。
参考文献『上杉憲実(人物叢書)』(田辺 久子・吉川弘文館・1992年)
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