昔から、信長の性格を表現した、有名なアイカツ格言があります。
《英訳してみよう》
鳴かぬなら
コトコト煮込め
《英語訳》
If it doesn't call
stew carefully until done
gray-headed cuckoo
短気なんだか、気長なんだかよく分かりません。英文を参考にした『来世使える! クソみたいな英文』(カンゼン社)の筆者のコウノスケ氏に、小一時間問いただしたいところです。
もちろん、ホントは「鳴かぬなら□してしまえホトトギス」です。
信長の官職で有名なのは、上総介でしょうか。いわゆる、「織田上総介信長(おだ かずさのすけ のぶなが)」です。「介」というのは奈良時代の制度のなごりで、地方官である国司のナンバー2のことです。奈良時代の役人は四等官制といって、「かみ・すけ・じょう・さかん」で構成されていました。国司の場合は、長官である「かみ」には「守」の漢字を使って、次官である「すけ」には「介」の漢字を用いたのです。
じゃあ、なぜ信長は国司のトップである「守」を名乗らなかったのか。それは、上総国が親王任国といわれる国だったからです。古代において、上総国や常陸国などは、親王が名目的に国守に任じられることになっていました。こうして、その国の税で親王を養うんです。こうした国を親王任国といったんです。そういう事情があったので、古代において、上総国などに実際に行って現場で政治を指揮するのは、名目上はナンバー2の「介」だったんです。この名残が中世の末期まで残っていて、上総は親王任国だから守になれないから、織田信長は上総介なんです。ちなみに、平安時代の『更級日記』の作者の菅原孝標女のお父さんである、菅原孝標も上総介でした。菅原孝標女は自分のことを「東路の道のはてよりも、なほ奧つかたに生いいでたる人」と言ってますね。
信長は、デビューして5・6年たったころ、美濃の斎藤龍興を倒して、美濃国を平定します。 そして、織田信長は、稲葉山を岐阜という名に改めました。「ぎふ」って、かなり珍しい地名ですよね。「岐阜」というのは、禅僧など文人の間で用いられていた美濃の雅称(風雅な名称のこと)だったといわれています。
また、このころから「天下布武」の印判をつかい始めました。なんだかかっこいいですね。
美濃を攻略した信長は、足利義昭を奉じて上洛を果たします。ところが、足利義昭は、浅井長政や朝倉義景などに信長を裏切らせたりして、信長を苦しめます。このころの信長は、ホントに苦しそうです。そして、ようやく1570年の姉川の戦いで、浅井長政たちを滅ぼします。
そのときの、有名なエピソードがあります。
《英訳してみよう》
うちに寄って、ドクロで一杯やらない?
《英語訳》
Would you ilke to come up and have a skull of drink?
『浅井三代記』によると、信長は、討ち取った浅井長政たちのドクロを杯にして、酒を飲んだといいます。信長の残虐性を示すエピソードですね。ただし、信長の生涯についての重要史料である『信長公記』には、ドクロを杯にしたという記述はありません。
令和もたけなわな今日このごろですが、ご老人なら平成元年にブームになった「一杯のかけそば」を思い出せますよね。私は思い出しました。…何が言いたいのかというと、「髑髏一杯のかけそば」なら"a skull of soba noodle"だね、ってことです。
《日本語訳してみよう》
"Hi, Mitsuhide, what are you doing?"
"Hi, my lord, can't you tell? I'm sawing your teapot in half."
《日本語訳》
「よう、光秀。何やってるんだ?」
「おう、殿。見て分かんない?ノコギリであんたの茶器を真っ二つに切っているところさ。」
…これだけの兆候があれば、信長は本能寺の変は防げたのではないでしょうか。
「敵は本能寺にあり!!」明智光秀は手勢を率いて丹波亀山城から引き返し、羽柴秀吉の高松城攻撃を救援するために少数で本能寺に休止中であった信長を襲います。こうして、魔王と恐れられた信長も、本能寺の炎に包まれることとなりました。
《日本語訳してみよう》
When it comes to "flaming", you can count on trusted and proven Honno-ji Temple.
During the campaign period, fuel prices are reduced to half the normal rate.
《日本語訳》
炎上なら、信頼と実績の本能寺にお任せ下さい!キャンペーン期間中は、燃料費が通常料金の半額となります。
(英文参照: 中山著『試験に出ない英単語 出る篇』飛鳥新社 )
信長自信が「是非も及ばず」と驚いたように、明智光秀が謀反におよんだ理由は、誰にとっても謎でした。
それ故に、本能寺の変の動機探しは、まだまだ続いているんです。
《日本語訳してみよう》
Chosokabe Motochika worked out scenarios to cover up the truth of the matter.
《日本語訳》
長曾我部元親は、事件の真相を覆い隠すためのシナリオを用意していた。
付記:桶狭間合戦の英語
1560年、
2万5千の兵を率いて上洛を始めた。
京都に向かう途中にいるのは、織田信長。
陰鬱な気分で休憩を取る今川軍。
《英訳してみよう》 「やだ、また雨だよ。 雨だと気分も晴れないなあ。」
《英語訳》
Oh, no. It's raining again! I feel down when it's rainy.
その今川軍の位置を正確に掴んで、織田軍に伝達したのは梁田政綱。
織田軍は、今川軍に察知されることなく田楽狭間に到着。
そして、2万5千人の今川軍の本営を、風雨のなか3千人の信長軍が急襲した!
それに対して、今川軍の位置を報告した梁田政綱には、6倍の3000貫(≒3億円)!の領地が与えられた。
これは、信長が情報の重要性を認識していた証拠として、よく語られるエピソードである。
Comentarios