受験生・学生の質問を受けつています。
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以下の問いに答えられますか。
解答例はページの下の方で。
14. 院政開始の背景やねらいについて説明できる。
15. 院政と摂関政治の経済基盤の共通点と相違点を説明できる。
16. 院政期の造寺造仏と成功の関連性について説明できる。
17. 知行国制度について説明できる。
18. 強訴が武士の成長に果たした役割を説明できる。
19. 奥州藤原氏の経済と文化の独自性を説明できる。
20. 保元の乱の背景と経過に着目して、その歴史的意義を説明できる。
21. 平治の乱の背景と経過に着目して、その歴史的意義を説明できる。
22. 平氏政権の貴族的性格と武士的性格を説明できる。
23. 平氏政権の経済的基盤を説明できる。
24. 院政期の文化について、時代背景や担い手の変化に着目して説明できる。
【解答例】
14. 摂関家の影響から距離をおいた天皇は、自分の子孫に皇位を継承させようと考えて、院政を初めた。やがて、院は法や慣例にとらわれずに、天皇を後見する立場で政治の実権を掌握した。
15. 摂関家の経済基盤が官人としての給与と荘園にあったのに対し、院の経済基盤は荘園と知行国にあった。両者ともに、成功による収入もあった。
16. 六勝寺などの造営費用を調達するために成功を用いたため、売位売官の風潮がさかんになった。
17. 有名無実化した俸給にかわり、一国の支配権を上級貴族に与えて知行国主とし、その国からの収益を取得させる制度。
18. 朝廷は強訴に抗することができず、武士を用いて鎮圧や警護にあたらせたため、武士の中央政界への進出をまねいた。
19. 藤原清衡は、北方で産出する金や馬などの産物をもって京都の摂関家と結んで、阿弥陀堂など京都文化の移入につとめた。
20. 鳥羽法皇の死後に皇室内の対立と摂関家内の対立が表面化した。武士を集めた崇徳上皇に対して、後白河天皇は平清盛や源義朝らの武士を動員して、崇徳上皇を破った。これにより、貴族社会内部の争いも武士の実力で解決されることが明らかとなった。
21. 院政を始めた後白河上皇の近臣の間に対立が深まった。近臣の1人の藤原信頼は源義朝と結んで近臣の藤原通憲を自決に追い込んだが、平清盛に滅ぼされた。これにより、武家の棟梁としての清盛の地位と権力が急速に高まった。
22. 貴族的性格としては、後白河法皇に奉仕をして高位高官を独占し、天皇家と外戚関係も結んだ。武士的性格としては、西国武士団を組織化して、家人を荘園・公領の地頭に任命した。
23. 知行国と荘園と日宋貿易。
24. 武士が新たに台頭してきたため、中央の貴族は地方の武士や庶民の姿に関心を示すようになった。そのため、この時代の文化は地方文化を取り入れた新鮮で豊かなものとなった。また、武士も文化の担い手となり始め、中央の文化が地方にも伝播した。
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