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高校教科書理解度チェック:近現代7(大学入試論述対策)

受験生・学生の質問を受けつています。

質問フォームに質問を送れば、ブログで回答します(できる限り)。



以下の問いに答えられますか。

解答例はページの下の方で。

1. 日本・ドイツ・イタリアが連携を深めていったことについて、説明できる。

2. 華北分離工作の目的を説明できる。

3. 日中戦争に対する近衛内閣の声明がもつ歴史的意味を、説明できる。

4. はじめ、国家総動員法に政党や財界が反発した理由を説明できる。

5. 国家総動員法の歴史的意義を説明できる。

6. 戦時下の思想状況や文化・文学活動について説明できる。

7. 阿部内閣から近衛内閣成立にいたる経緯を説明できる。

8. 「東亜新秩序」の内容と、それが日米関係に及ぼした影響を説明できる。

9. 「大東亜共栄圏」の内容を説明できる。

10. 新体制運動がめざしたこと、および大政翼賛会の特徴を説明できる。

11. 第2次近衛内閣の外交政策転換と、アメリカの対応を説明できる。

12. 日米交渉の推移を、第3次近衛内閣の総辞職まで説明できる。

13. 東条英機内閣の成立から、日米開戦までの推移を説明できる。

14. 翼賛選挙以後の国内政治体制を説明できる。

15. 大東亜会議の目的と、大東亜共栄圏の実態を説明できる。

16. 国民や植民地の人びとの動員について、説明できる。

17. 連合国側の3つの会議について説明できる。

18. 日本がどのように戦争を終結させたのかを説明できる。













【解答例】

1. 世界恐慌以来の世界的経済不安は、イギリスなどを保護主義に向かわせた。保護主義をとるに十分な植民地をもたない、日本が満州事変をおこすなど、似た条件のドイツ・イタリアもワシントン体制へと挑戦した。また、ソ連国際共産主義運動への対抗もあって、日・独・伊は連携を深めたが、国際的に孤立することになった。

2. 河北を満州国への防波堤とするとともに、中国共産党の活動も満州国へと入らないようにするため。

3. 第1次近衛声明で「国民政府を対手とせず」と声明して、国民政府との交渉による和平の可能性を自ら断ち切って長期化を確定し、第2次近衛声明で「東亜新秩序」を、第3次で「善隣友好・共同防共・経済提携」をうたい、戦争目的をはじめて明らかにした。

4. 政党は議会の権限がまったく失われると思い、財界は自由な経済活動が損なわれると考えたから。

5. 国家総動員法によって、政府は議会の承認なしに戦争遂行に必要な物資や労働力を動員する権限を与えられたため、議会は立法権を実質的に失い国民生活は思想面も含めて全面的統制下におかれた。

6. マルクス主義の影響力が低下して、日本の伝統文化や思想への回帰もみられた。プロレタリア文学が衰退していくなかで、戦争文学が人気を得た。

7. アメリカとの戦争を回避したい阿部信行内閣と米内光政内閣は、大戦不介入を方針とした。軍部は近衛の新体制運動に期待し、陸相を辞任させて親英米の米内内閣を倒し、近衛内閣を成立させた。

8. 「東亜新秩序」とは、東アジアにおける日本の覇権確立を目指すものであり、日本の排他的支配権の成立を意味した。アメリカは中国との貿易を排除されることをアメリカへの挑戦とみなし、日米対立が深まった。日本とドイツが軍事同盟を結ぼうとすると、アメリカは日米通商航海条約の廃棄を通告し、1940年に発効した。

9. 「大東亜共栄圏」は、日満中の「東亜新秩序」を拡大し、欧米の植民地である東南アジアの地域を日本の支配権に組み入れ、石油・ゴム・ボーキサイトなどを確保しようとした考え方・戦略である。

10. 新体制運動は、ナチ党やファシスト党にならって強力な大衆組織を基盤とする一大政党を樹立し、規制の政党政治を打破して一元的な指導のもとで全国民の戦争協力への動員を目指す運動である。しかし、大政翼賛会は当初目指した政党組織となりきれず、官製の上意下達機関にとどまった。

11. 第2次近衛内閣の組閣に先立って、欧州大戦不介入方針からの転換、独・伊・ソとの提携強化、南進の方針を定めた。1940年に、日本軍は北部仏印に進駐して日独伊三国同盟を締結すると、これと前後してアメリカは、航空機用ガソリンや屑鉄の対日輸出を禁止して、日本への経済制裁を本格化させた。

12. 第2次近衛内閣のもとで、日米衝突を回避するための交渉が、野村吉三郎とハル国務長官との間で開始された。しかし、1941年7月2日の御前会議で、対米英戦覚悟の南方進出と情勢有利の場合の対ソ戦が決定されると、第3次近衛内閣成立直後の7月末に、南部仏印進駐が実行された。これに対してアメリカは在米日本資産を凍結し、対日石油輸出を禁止した。9月6日の御前会議では、対米開戦を含む帝国国策遂行要領を決定した。

13. 9月6日の決定を白紙に戻すことを条件に成立した東条内閣は、アメリカがハル=ノートで日本が満州事変以前の状態に戻すことを要求すると、12月1日の御前会議で対米英開戦を最終決定した。

14. 翼賛選挙の結果、政府の援助を受けた推薦候補が絶対多数を獲得し、選挙後には挙国一致的政治結社として翼賛政治会が結成され、議会は政府提案に承認を与えるだけの機関となった。

15. 東条首相が占領地域の代表者を東京に招集して開かれた大東亜会議では、「大東亜共栄圏」の結束が強調された。しかし、欧米列強にとってかわった日本の占領支配の実態は、戦争遂行のための資材・労働力調達を最優先するものであったため、住民の反感や抵抗はしだいに高まった。

16. 学徒出陣として文化系学生を徴収し、学校に残る学生や女性を軍需工場などで勤労動員した。朝鮮人や中国人を日本本土に強制連行して働かせ、後に朝鮮や台湾でも徴兵制が施行された。また、占領地からはいわゆる従軍慰安婦が集められた。

17. 1943年11月のカイロ会談で日本領土の処分方針を決定し、1945年2月のヤルタ会談ソ連の対日参戦を決定した。1945年7月のポツダム会談では米英ソが会談し、日本の無条件降伏と日本の戦後処理方針を、米英中の名でポツダム宣言として発表した。

18. 日本はポツダム宣言を黙殺したが、二度にわたる原子爆弾の投下と中立条約を無視したソ連の参戦をうけて、1945年8月14日に昭和天皇ポツダム宣言受諾を決定した。翌8月15日、敗戦は天皇のラジオ放送で全国民に発表され、9月2日にミズーリ号で降伏文書に調印した。

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