【目次】
1932年5月15日に五・一五事件が起こったのはなぜ?
満州事変が起こった1931年には、桜会(クーデターによる国家改造を目指す陸軍将校の団体)の急進派と陸軍首脳部によって企てられ未発に終ったクーデター事件である三月事件と、桜会のクーデター未遂事件である十月事件が起こりました。
この十月事件の計画には、大川周明の影響を受けた海軍将校藤井斉(ふじい ひとし)も海軍青年将校の代表として参加していました。つまり、海軍の青年将校も陸軍のクーデター計画に加わってきたことがわかります。
さらに、1932年には、井上日召(日蓮宗の国家主義者)率いる民間のテロ組織が、井上準之助前蔵相と三井合名理事長団琢磨を射殺する血盟団事件が起こりました。自首した井上日召は無期懲役に処せられ、昭和15年に仮出所して、一時期は近衛文麿の相談役もすることになります。
さて、井上日召のグループは、海軍青年将校のリーダーであった藤井斉と交流をもっていました。
こうした関係を背景に、血盟団が検挙されて、藤井斉が上海で1932年2月5日に29歳で戦死したあと、海軍の青年将校グループは1932年5月15日に犬養首相を射殺して、内大臣邸に手榴弾を投げて、変電所を襲撃する五・一五事件を起こしたのです。
では、なぜ5月の15日だったのか。
1932年4月9日、海軍将校たちは、5月上旬から中旬にかけて臨時議会が開催される、という新聞報道を目にしました。
そこで、海軍将校たちは、議会中ならば少人数で計画を実行できると考えました。
ところが4月24日に、仲間である士官候補生の大半が満州に行き、5月14日まで戻らないということになりました。また、仲間の中には取り調べで転属される者もいた。このため、海軍将校は官憲の取り調べが近いかもしれないとあせりました。
このとき、海軍将校は、来る5月15日にアメリカの喜劇王チャーリー・チャップリンが首相官邸の歓迎会に出席する、という新聞記事を思い出したそうです。5月15日は日曜日なので、休日の海軍将校が外出しても怪しまれないとも考えました。
こうして、4月27日に、5月15日に首相官邸を襲撃するという計画がたてられました。
その後、チャップリンの歓迎会があるという情報があやしくなったりと、紆余曲折はありましたが、5月13日に最終計画案ができあがったようです。
まさか、チャップリンが登場するとは思いも寄りませんでしたよ。
参考文献:
なぜ陸軍ではなく海軍なの?
血盟団が検挙されて、藤井斉が上海で1932年2月5日に29歳で戦死したあと、海軍の青年将校グループは1932年5月15日に犬養首相を射殺して、内大臣邸に手榴弾を投げて、変電所を襲撃する五・一五事件を起こしたのです。
五・一五事件は少数の急進派の暴発だったようで、綿密な計画にもとづいておらず海軍将校と陸軍将校もうまく連携できませんでした。
こうして見てみると、本来は陸軍将校と海軍将校がともにクーデターを起こそうとしていたけれど、リーダーの藤井斉を予想外に失った海軍の一部将校が、あせって暴発した事件だったと五・一五事件はみなせるかもしれません。
つまり、本来は陸軍と海軍で起こす予定の事件であり、「”海軍が”五・一五事件を起こした」というのは、あくまでも結果論だったということになりそうです。
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