金官国(伽耶)の始祖・首露王(金首露)とは、13世紀末に編纂された『三国遺事』に抄録された、「駕洛国記」で語られる朝鮮の始祖です。
「駕洛国記」とは、金官国の王族の末裔を名のる氏族が、11世紀にご先祖さまの物語を語ったものです。
記事の内容についての信頼性は、推して知るべしですね。
それでは、11世紀の「駕洛国記」が語る、1000年前の偉大なるご先祖様・首露王の事跡を、詳しく紹介します。
神話によると、首露王は紀元42年に卵によって降臨して、金官国を建国しました。
冒頭の部分は以下のようなものです。
天地開闢以来、この地には国号も君臣の称もなく、九人の酋長が一〇〇戸・七万五〇〇〇人の民を統べていた。
たまたま後漢の光武帝の建武十八(四二)年壬寅三月禊浴の日(上旬の巳の日)、住んでいる北の亀旨(きじ)で普通ではない呼び声がした。
民が三〇〇人集まると、人の声のような音がし、姿は隠したままいった。「ここに人がいるか」。九人の酋長が「私達がおります」というと、「ここはどこか」と訊き、「亀旨です」と答えると、またいった。「天が私に命じた。ここに御して家邦をあらたにし、君后となれ、と。よってここに降る。おまえたちは峰頂を掘って、亀よ亀よ首をだせ、ださなければ焼いて食べてしまうぞ、とうたえ。そして踊れ。それは大王を迎え歓喜する踊りだ」と。
九人の酋長らはその言葉のとおりにし、喜んで歌舞した。しばらくしてあおいでみると、紫の縄が天からたれて地に着いた。縄の下をみると、そこに紅い布につつまれた金の盒子があった。あけてみると日のようにまるい黄金の卵が六つあった。人びとはみな驚き喜んで百拝し、もとどおりつつんで酋長の一人我刀(がとう)の家に持ち帰った。
次の日の夜明けにまた集まってあけてみると、六つの卵は童子になっていた。優れた容姿で人びとは拝賀した。童子は日々に成長し、一〇日余りで背丈も九尺となり、満月の日に即位した。最初にあらわれたので首露といい、国を大駕洛また伽耶国と称した。六伽耶の一つである。残りの五人はそれぞれ五伽耶の主となった。(引用:『古代の日本と伽耶』)
国立国会図書館デジタルコレクションで、文科大学史誌叢書の『三国遺事 第2』(1904年)を添付しておきます。1974年出版の国書刊行会版も国立国会図書館デジタルコレクションにあったのですが、書き込みがしてありました。
なので、校訂の質は劣るかもしれませんが、どうせ私の訳もテキトーなので、以下は、文科大学史誌叢書の『三国遺事 第2』(1904年)をテキトーに訳したものです。
即位元年
仮宮を造営して、そこに住んだ。
即位二年
本格的に都を造営した。これを「金陽」と言う。
?年
国を奪いに来た脱解(だつげ←人の名前)と術くらべ対決。なお、脱解は身長90センチくらいで、こいつも卵から生まれたって書いてある。
そんで、お互いに鷹に変身したりして勝利。脱解を従える。なんかいろいろあって、脱解は逃げるっぽい。
?年
みんなが首露王に妻を娶ることを勧めてくる。
なんか、妻探しみたいなことをしていて、よう分からんことをやった結果、阿踰陀国(あゆたこく)から船でやってきた許王后(許黄玉(きょこうぎょく))と結婚。『古代の日本と伽耶』によると西暦48年らしい。
そんで、添付の36ページあたりで、なんか官職とか身分みたいなのを定めたように見える。
36ページの最後のほうで皇太子が生まれたっぽいけど、霊帝の中平六年に首露王は157歳で死んだっぽい。『古代の日本と伽耶』によると西暦199年らしい。
以上が、金官国の王族の末裔を名のる氏族が、11世紀に語った1000年前の偉大なるご先祖様・首露王の事跡です。
神話しか残っていない情況なので、「実際に」はどうだったかは、誰も分からないです。
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