江戸幕府の三代将軍は、徳川家光です。将軍に就任したのは1623年で、家光19歳のときでした。
家光は初代家康の子である秀忠の子、すなわち家康の孫にあたります。家光のママは秀忠の正妻、アネゴ女房の江ちゃんです。江ちゃんは織田信長の姪にあたります。また、家光の乳母、つまり育ての親は、大河ドラマで有名になった春日局です。
(秀忠と江ちゃんについては拙著『誰も得しない日本史第1巻』をご参照ください)
I'm glad you worship me, because I really do look down upon you.
(そならたを見下してはおるが、余を崇拝しておるのならば嬉しいぞ)
家光が将軍となった当初は、パパ秀忠が政治の実権を握り続けていました。
しかし、パパが死去すると、家光自らが政治の実権を掌握することになります。まず、家光は諸侯を集めます。そして、諸侯に言い放ちました。
「余は生まれながらの将軍である。譜代大名だろうが外様大名だろうが同等の家臣として扱う。文句があるヤツは謀反を起こすがよい。そういうヤツには三年の猶予を与えるから、帰国して戦の支度をせよ」と。
「生まれながらの将軍」で家光が言いたかったことは、自分は祖父家康や父秀忠とは違うということです。家康や秀忠は、生まれたときは天下人ではなく、二人とも秀吉の家臣とかであったわけです。家康の若いころは、そもそも今川家の人質です。
そういう意味で、最後には家康の家臣となった者でも、本来は同僚であったり、家康よりも格上であったという大名がフツーにいたんです。そういう状態から、家康などは塁代の家臣(譜代大名)たちの手をかりて、天下人となったのでした。
しかし、それに対して家光は生まれたときから将軍の血筋であり、その時点ですでにすべての大名を超越した存在なのだということです。
そのとき家光に即答したのは、家康どころか、その前の秀吉の時代からの生き残りの、伊達政宗(当時65歳くらい)でした。伊達政宗は、「政宗はもとより、異論ある者などおるはずがありませぬ」と言って、即座に平伏したと言います。これで場の空気が決しました。その後、家光は独裁的な権力を行使して、200年以上保つ幕藩体制を確立していくことになるのです。
徳川家光が形作ったシステムに、江戸時代の特殊な対外関係があります。いわゆる「鎖国」というやつです。
徳川家光は、1635年の武家諸法度寛永令で、積載能力500石以上の船を建造することを禁止します(禁止理由は諸説あります)。積載能力500石の船は、今でいうと積載能力75トン、排水量100トンに相当します。
排水量100トンの船って、どのくらいの大きさでしょうか。
あ、面白い記事を見つけました。
→https://variousdiary.blogspot.com/2013/01/10010001000010.html
上のサイトでは、排水量ごとの船の写真が紹介されています。
たとえば、全長30メートル程度の漁船が、だいたい排水量100トンくらいみたいです。写真を見ると、30メートルの船っていうのはしょぼい感じですが、30メートルといえば50メートル走で走る距離の60%なので、小さくはないですね。この歳で30メートルも走ると心臓が大変なことになります。
復元された奈良時代の遣唐使船が、全長30メートル、排水量200トンなので、外洋を航行できる最低限の船というのが、もしかしたらこれくらいの大きさなのかもしれません。
→https://narakanko-enjoy.com/?p=19747
こうして、外洋を航行できる船を作れなくなって、日本人は鎖国という法的にも、技術的にも外国に行くことが不可能となりました。「鎖国」、というわけです。
ところが、おもしろいことに、家光は逆にドデカイ船を、同じ1635年に就航させています。
その船の名は「安宅丸(あたけまる)」。全長約40メートル、推定排水量1500トンもの大船です。先の計算にあてはめると、この安宅丸は千石船どころか、万石船ということになります。これは、デカい!!先のサイトの写真だと、全長70メートルのクルージング船よりデカいということです。
安宅丸はあまりにデカく、豪華絢爛な飾りをつけてて、船首ではドラゴンがガオーと威嚇してて、なおかつ船上には2階建ての天守までのっけているという、威厳はあるが、軍船としての実用性については大いにクエスチョンというしろものです。
これが江戸湾にいつもぷかぷかと浮かんでいる(そこから外にとか行けない)んですが、江戸湾の中ですら、いざ動かそうとするとこれが難しい。だって、そもそも天守とかが、船上にどーんとそびえ立ってるんで、マストを立てたり帆を張ったりとかすらできないんだもん。
というわけで、安宅丸を動かすときは……人力!
二人一組で漕ぐ大櫓100挺を、200人の屈強なムキムキマッチョな江戸メーンが汗だくで漕ぐ!!エイヤエイヤと漕ぐ!!!
漕ぐ!漕ぐ!漕ぐ!
ソイヤ!ソイヤ!ソイヤ!
飛び散る汗!! 発酵する男汁!!!
そこまでしてやっと、このスイカを入れたカブトムシの虫かごのような異臭を漂わせる、安宅丸はよたよたと動ける程度というものでのした。
この安宅丸は、維持費もケタ違いで、なんと年間10万石も費やしたと言います。10万石といえば、中規模の大名の年収くらいになります。今なら、福岡県とか、熊本県とかの地方税分くらいは毎年費やしているような感覚でしょうか。
それでもこの船は、なんと50年近くも維持され続け、1682年に、5代将軍綱吉によってようやく解体されることとなりました。
エピローグ
1651年、家光は茶碗を眺めていたときに、突然震えが止まらなくなって倒れました。そして、そのまま意識が戻らないまま、翌日になくなりました。死因は脳卒中だったと言われています。このとき、家光は母違いの弟である保科正之を呼び寄せて、徳川宗家を頼むと言いました。保科正之は4代将軍の家綱をよく補佐し、保科正之の子孫は会津松平家となって、200年後の幕末になっても最後まで薩長軍と戦いました。
【おまけ 徳川家光期のできごと】
1623年
1624年
English Factory in Hirado closes due to poor business.
(平戸のイギリス商館、経営不振のため閉鎖)
Spanish ships prohibited from calling at Japanese ports; persecution of Christians intensifies.
(イスパニア(スペイン)船の来航を禁止;キリシタン迫害を強化する)
1635年
Prohibitions fo Foreign Voyages instituted(overseas travel by Japanese is prohibited, and Japanese residents abroad are prohibited from returning to Japan).
(海外渡航禁止令公布(日本人の海外渡航と海外に居住する日本人の帰国をいっさい禁止))
Revision of the Buke Shohatto(Laws for the Military Houses);system of mandatory alternate residence in Edo by daimyo(the sankin kotai system) formalized.
(武家諸法度改定(武家諸法度寛永令);大名の参勤交代制度化される)
1636年
Portuguese marchants, who since 1571 had lived freely in Nagasaki city, are removed to the artificial island of Dejima.
(1571年以来長崎市中にあったポルトガル商人の居住地を出島に制限)
1637年
Shimabara Uprising(1637-38) mounted by overtaxed peasants.
(島原の乱、重い年貢に苦しむ農民が蜂起)
1639年
Edicts establishing National Seclusion(Sakoku) are completed: Portuguese merchants are evicted from Dejima; Portuguese ships are banned from Japan; all Westerners except the Dutch are prohibited from entering Japan.
(鎖国の諸法令完成:オランダ人を除く全ヨーロッパ人の来航禁止)
1641年
Dutch Factory shifted from Hirado to Dejima in Nagasaki.
(オランダ商館、長崎の平戸から出島に移される)
1643年
Dempata Eitai Baibai Kinshi Rei, an ordinance prohibiting the sale and purchase of farmland, issued by the Tokugawa shogunate.
(徳川幕府、農地の売買を禁止する田畑永代売買禁止令公布)
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